世界伝説 第71弾

2006年11月は、イランから帰った後、レバノン、エチオピアへと旅立ちました。2006年7月、レバノンは、イスラエル軍からの攻撃を受け、私が永久名誉市民の称号を授与されたティール市は破壊され、沢山の方々が犠牲になりました。いだきしん先生は、戦争が終わり、飛行機が飛ぶようになったら、一刻も早くレバノンに行こう、とおっしゃって下さいました。私もそれが出来れば、と願っていました。9月に戦争が終わり、その後すぐにブルガリアでの「高句麗伝説」にレバノンチームの方々がお越し下さり、11月はイランでのコンサートがありましたので、私達にとり、早い時期はこの11月になったのです。私は、ティールの市長さんは、何処にも避難せず自分はずっとティールにいる、と電話でおっしゃっていたお言葉が心にありました。2006年8月は、本来であれば、ヨルダンのジェラッシュフェスティバルにて「高句麗伝説」コンサートを開催する予定でした。イスラエル軍が攻撃を始めてすぐに、ジェラッシュフェスティバルから、今年のフェスティバルは中止になったとの連絡を受けました。私は、ヨルダンへ行く為に準備をしていましたので、とても残念に感じ、目の前が暗くなってしまいました。が、ここでやめる訳にはいかない気持ちとなり、ヨルダンで開催する予定だった日に、東京、狛江エコルマホールにて「高句麗伝説」コンサートを開催致しました。そして、レバノン支援とし、7回「高句麗伝説」チャリティーコンサートを開催し、寄付させて頂く事にしたのです。ティールの市長さんにお会いする事がとても楽しみでした。市長さんは、集団埋葬を決断したと、CNN ニュースで知りました。どれだけの悲しみを耐え、乗り越えてこられた事かと、自分には想像も出来ない程の悲しみの深さを感じ、心は痛むばかりでした。チャリティーコンサートで得た収益で何が出来るのかと考えながらレバノンへ行きました。衣類なのか、食べ物なのか、生活用品なのかという想像しか出来ない自分でした。ティールへ行き、いよいよ市長さんと再会する時が来ました。

生命全てから悲しみを感じました。お姿を見るだけで涙が込み上げます。市長さんは、瞳が合うだけで通じ合える方です。どちらにしましても、言葉は通じませんので、瞳が合うだけで通じる事は、とてもありがたい事です。生命から悲しみを感じる市長さんにお会いし、いだきしん先生にお会い出来て良かったと、私は安堵しました。いだきしん先生は、人の痛み、悲しみ、生きている状態を全て受け容れて下さいますので、市長さんは、お会いするだけで、きっと悲しみが癒され、生きる力が湧いてくると感じていました。解決の道があるから生きていける、といつも感謝しています。悲しい事を感じても、何も出来ない事は、人間とし辛く、悲しい事です。が、いだきしん先生にお会いになれば、解決に向かう事を知っていますので、この様に日本から訪ねて来る事も、解決へと向かっていけるから、希望を持って来れるのです。日本でチャリティーコンサートを開催した事をお伝えし、何に使って頂くかを話し合いました。まずは、ガジ教授の「図書館に本を」という助言により一つは決まりました。そして、次におっしゃった事は、大変驚きました。戦争中に、戦争が終わった時に必要なのはビジネスなので、ビジネススクールを作った、とお話されたのです。私財を投げ打って避難される方々を助けてこられたので、お金はすっかりなくなってしまったそうです。ビジネススクールは作っても、コンピューターがない、とおっしゃいました。寄付金でコンピューターを買ってもらえればありがたい、とのお返事だったのです。まさか戦争中に大変な中を、ビジネススクールを作ったとは、私には考えも及ばないことでした。いだきしん先生は、素晴らしい、とおっしゃいました。そして私に、よく覚えておくのだよ、とおっしゃいました。いつも、次の事を考え動く事は、本当に必要な事だ、とお話し下さいました。私はこの事は忘れずに生きていこう、と心に決めました。

市長さんの生き方に心から敬意を表します。そして、更に驚いた事は、レストランで食事をしながら、色々なお話をしていましたが、ガジ教授が席を立たれ、私も席を立った時、市長さんはフランス語で話をされていたと、いだきしん先生からお聞き致しました。市長さんはアラビア語しか話されないと思っていました。いつもガジ教授が通訳して下さっていたからです。ところが、フランス語を話しておられたというのです。フランス語を話せるのに、話せないようにし通訳を介していたとは驚きでした。中東の地で生きていくのは、本当に賢く乗り切れる様に生きるのだと感じ、畏れ入りました。またレバノンでコンサートをしたい、という話もさせて戴きました。その時、ティールも破壊され、沢山の人が犠牲になりましたが、最も多くの方が亡くなり、町の大半が破壊されたと聞きました、ビントジベイルの議長さんが、ビントジベイルでもコンサートしてほしい、とおっしゃいました。いだきしん先生の働きを知り、慰霊になるからとのお気持ちが伝わってきました。心から行かせて戴きたいと申し上げました。「高句麗伝説」の時には見えていた建物は、破壊されてなくなっていました。人間が暮らしている地を攻撃し破壊するとは、人間のする事ではないとやりきれず、悲しいばかりです。この様な事が起きない社会を創っていきたいと心から願います。市長さんにお会い出来て安心しました。市長さんは、変わらず人や社会の為に尽くしておられます。ティール市は、市長さんはじめ市議会議員の方々は、全員無償で働いていると聞いています。日本とはまるで違う仕組みとなっている事も驚きながら感心する事であります。

 ティールでは、ガジ教授のお母様の御家も訪ねました。初めてティールに来た時に、時間を忘れて遺跡の中で楽しんでいました。名残惜しく遺跡を離れる時、目の前の御家が色とりどりの花が咲き、とても美しい御家だった事が心に残っています。「この家に住む人はいいな」と心の中で感じたのです。毎日美しいフェニキアの遺跡を見、美しい海を見、爽やかな風に吹かれ暮らしていける事は素敵だと感じたのです。当時は、常に戦争が絶えず、街が破壊される事を繰り返されていたとは迂闊にも知りませんでした。素晴らしい地で暮らしていける事がいいと感じていたのです。その御家が、まさかガジ教授のご実家だったとは、後から知った時に深いご縁を感じたのです。あの時、羨ましいと感じた御家を訪ねる日が来たのです。お母様にお会いした時、涙があふれました。亡き母に会えた様に感じたのです。亡き母に会えて嬉しくて、涙があふれたのです。お母様は「娘よ」と迎えて下さいました。そして、ずっとここに住んでいればいい、ともおっしゃって下さいました。初めて来た時「この家の人はいいな」と感じた事を思い出しますと、ここに住んでいい、と言って頂けることは夢の様です。が、現実は、ここに住む事は出来ない自分である事はよく分かっていますので、お気持ちをありがたく受け止め、喜びました。ガジ教授のご家族もおられて、皆でこの様にし、共に暮らし、毎日家で過ごしていると聞きました。ティールでは時折、外でチャイを飲んでいる風景を見かけます。レバノンでの暮らしは、日本での暮らしとはまるで違う事をまた知ったのです。人間の人生を考えます。私が戦争中に、生命の無事を祈り作りました心模様を描いたショールやループタイをお母様にプレゼントさせて戴きました。とても喜んで頂きました。心温まる、涙あふれる尊いひと時を過ごす事が出来ました。

ティールを離れ、ベイルートに向かいました。この度は、ベイルートからエチオピアへ行く予定でいました。エチオピアに発つ日、レバノンはストライキが始まっていました。空港への幹線道路は閉鎖されるので、閉鎖される前に空港に行った方がいい、とのアドバイスを受け、早めにホテルを発ち、空港に向かいました。その後ストライキは続き、何と1年8ヶ月続いたのです。私達がレバノンを発った日からレバノンはストライキに入り、経済は麻痺し、ゴーストタウンとなったとの事を報道から知りました。まだ道路が封鎖される前でしたので、無事に空港に着き、エチオピア行きの飛行機に乗り込みました。エチオピア航空は、バンコクや北京から乗っていた時は、ビジネスクラスもあり大きな機材でしたが、ベイルートからは小さな機材で、人がぎゅうぎゅう詰めに乗っています。とても狭い空間に押し込められる様な状態でしたので、休む事も出来ず、とても疲労しました。ベイルートからアディスアベバへの飛行時間は長く感じました。アディスアベバに着いた時は疲れ切っていました。レバノンの状況といい、エチオピアの状況といい、大変な状況で人々は生きている事を身に沁み感じる旅です。続く…。