2006年11月は、イランから帰った後、レバノン、エチオピアへと旅立ちました。2006年7月、レバノンは、イスラエル軍からの攻撃を受け、私が永久名誉市民の称号を授与されたティール市は破壊され、沢山の方々が犠牲になりました。いだきしん先生は、戦争が終わり、飛行機が飛ぶようになったら、一刻も早くレバノンに行こう、とおっしゃって下さいました。私もそれが出来れば、と願っていました。9月に戦争が終わり、その後すぐにブルガリアでの「高句麗伝説」にレバノンチームの方々がお越し下さり、11月はイランでのコンサートがありましたので、私達にとり、早い時期はこの11月になったのです。私は、ティールの市長さんは、何処にも避難せず自分はずっとティールにいる、と電話でおっしゃっていたお言葉が心にありました。2006年8月は、本来であれば、ヨルダンのジェラッシュフェスティバルにて「高句麗伝説」コンサートを開催する予定でした。イスラエル軍が攻撃を始めてすぐに、ジェラッシュフェスティバルから、今年のフェスティバルは中止になったとの連絡を受けました。私は、ヨルダンへ行く為に準備をしていましたので、とても残念に感じ、目の前が暗くなってしまいました。が、ここでやめる訳にはいかない気持ちとなり、ヨルダンで開催する予定だった日に、東京、狛江エコルマホールにて「高句麗伝説」コンサートを開催致しました。そして、レバノン支援とし、7回「高句麗伝説」チャリティーコンサートを開催し、寄付させて頂く事にしたのです。ティールの市長さんにお会いする事がとても楽しみでした。市長さんは、集団埋葬を決断したと、CNN ニュースで知りました。どれだけの悲しみを耐え、乗り越えてこられた事かと、自分には想像も出来ない程の悲しみの深さを感じ、心は痛むばかりでした。チャリティーコンサートで得た収益で何が出来るのかと考えながらレバノンへ行きました。衣類なのか、食べ物なのか、生活用品なのかという想像しか出来ない自分でした。ティールへ行き、いよいよ市長さんと再会する時が来ました。
生命全てから悲しみを感じました。お姿を見るだけで涙が込み上げます。市長さんは、瞳が合うだけで通じ合える方です。どちらにしましても、言葉は通じませんので、瞳が合うだけで通じる事は、とてもありがたい事です。生命から悲しみを感じる市長さんにお会いし、いだきしん先生にお会い出来て良かったと、私は安堵しました。いだきしん先生は、人の痛み、悲しみ、生きている状態を全て受け容れて下さいますので、市長さんは、お会いするだけで、きっと悲しみが癒され、生きる力が湧いてくると感じていました。解決の道があるから生きていける、といつも感謝しています。悲しい事を感じても、何も出来ない事は、人間とし辛く、悲しい事です。が、いだきしん先生にお会いになれば、解決に向かう事を知っていますので、この様に日本から訪ねて来る事も、解決へと向かっていけるから、希望を持って来れるのです。日本でチャリティーコンサートを開催した事をお伝えし、何に使って頂くかを話し合いました。まずは、ガジ教授の「図書館に本を」という助言により一つは決まりました。そして、次におっしゃった事は、大変驚きました。戦争中に、戦争が終わった時に必要なのはビジネスなので、ビジネススクールを作った、とお話されたのです。私財を投げ打って避難される方々を助けてこられたので、お金はすっかりなくなってしまったそうです。ビジネススクールは作っても、コンピューターがない、とおっしゃいました。寄付金でコンピューターを買ってもらえればありがたい、とのお返事だったのです。まさか戦争中に大変な中を、ビジネススクールを作ったとは、私には考えも及ばないことでした。いだきしん先生は、素晴らしい、とおっしゃいました。そして私に、よく覚えておくのだよ、とおっしゃいました。いつも、次の事を考え動く事は、本当に必要な事だ、とお話し下さいました。私はこの事は忘れずに生きていこう、と心に決めました。