世界伝説 第10弾

エチオピアでの人生が変わる衝撃的体験は、これから色々な折に表現させて戴きます。人生観も価値観も変わる旅を終え、1週間も経たない内にやっと念願のフェニキアの地レバノンへと旅立ちました。母が亡くなり、初七日も経たない時に再び五女山に行き、五女山に行く事は叶わず泣く泣く出直す事を誓い帰ってきた時に、いだきしん先生が「もう一つのシルクロードを辿る旅はどう?」とおっしゃって下さった一言で項垂れていた頭が上がったのです。高句麗の源を辿る旅と受け止めた私は、高句麗の源を辿る事が、私が生きる道と心の中で光を見たのです。その後すぐに行く事は出来ませんでしたが、やっと2000年8月に実現出来たのです。時間が中々とれずにいましたので、何と1泊4日という強行軍でした。ローマの空港に着き、乗り換え、ベイルートに着いたのは深夜でした。フェニキアの地はレバノンだったのです。レバノンは、ニュースで見た印象が強く、怖い所と感じていました。爆撃により噴煙が上がる街の映像や、内戦の時の映像、連合赤軍が亡命していた地というイメージでした。ですが、不思議な位私は、その様なニュースを見てもレバノンに興味を抱くのでした。初めてレバノンの地に降り立ちました。理由もなく、意味も分からず飛行機を降り、空港内を歩く時、スキップする程心が浮き立っていたのです。自然にお腹の底から喜びが生まれ、心が浮き立ってならないのです。まだ暗い中を空港からホテルへ向かう車の中でベイルートの街を眺めました。車のクラクションや急ブレーキをかけるキーッという音がよく聞こえ、大変騒々しい街であります。いつ何が起こるか分からない不安や緊張を感じる街の空気です。それでも私は、レバノンに来れた事がうれしくて、暗い街を、目を見張る様にし見ていたのです。この目でしっかりと見ていたい気持ちで見ていたのです。ホテルに着き、少し休憩をとり数時間後には出発の時が来ました。早朝ベイルートのホテルを出発し、ベイルート市内のフェニキアの遺跡の撮影に出掛けました。明るく強い日差しに驚きました。それでいて、吹く風は爽やかなのです。何と心地良い事かと感動します。そして、私には空間に大宇宙に通ずる光の柱が見えました。フェニキアの精神の柱です。「街や建物は破壊されても、精神までは破壊されない」とメッセージが聞こえます。街は銃撃や銃弾の跡が残っています。建物には銃弾の跡が沢山残っています。破壊された街並みとはまるで違う光景が空間には見えるのです。とても美しく、光輝き永遠の光と立つ、フェニキアの精神が立っているのです。

ビブロスのフェニキアの遺跡に行きました。青い海と青い空、何と美しい風景でしょう。古代フェニキア人の魂が光輝き、満面の笑みで迎えてくれています。ピンクの光が輝き、かわいい女の子達が沢山迎えているのだと感じ、自然に微笑みが生まれます。この光景をいだきしん先生が写真を撮られた時に、ピンクの光が写っていました。やはり私が見たピンクの光は、フェニキアの乙女の魂であったのだと分かり、喜び生まれます。その日はバールベックのホテルに宿泊しました。戦争後間もない事は、その空気やホテルの状態でわかりました。ちゃんとした設備はなく、部屋があるだけという状態のホテルでした。朝食の時にトーストとミルクとコーヒーよりなかったので、私は他のホテルでは必ず出されるスクランブルエッグやベーコン等が次に来るのかと待っていましたが、ここではトーストだけだと知らされました。社会状況の厳しさを知りました。それでも、トーストとミルクとコーヒーだけの朝食は、私にとっては何故かうれしく、心がうきうきしていたのです。レバノンでは、何をしても、どの様な状況でも心が浮き立ってくるのです。バールベックにて、バール神が住むという神殿に行きました。ピンクの光、黄色い光、青い光、グリーンの光全て現れ、ひとつになっていました。バール神とは縁があるとずっと感じていました。感じるだけでなく、高句麗の源を調べた時に行き着いた神であったので、様々な書物により調べていたのです。もう、何十年も前になりますが「ひみこ」という作品を作った事があります。見えるがままに言葉に記していったのです。その時に、バール神まで行き着いたのです。高句麗の源にも通ずるバール神が住むバールベックに辿り着けました事は、やはり魂の導きと感じます。

バールベックから、ベイルートに戻り、またホテルにて数時間過ごし空港への出発の時が来ました。深夜便ですので夜にホテルを発たなければならず、眠る事なくそのまま身支度をし、ホテルを出ました。ホテルの部屋からベイルートの街を心に刻んでおきたい気持ちでじっと見ていました。道中、いだきしん先生からおっしゃって頂いた言葉が心にありました。「2度と来れる様な場所ではないから」というお言葉が心に残っていました。確かに、いつ何が起こるかわからない地であり、どの様な人が潜んでいるのか分からない地であるという事は、肌身で感じる所でありました。ベイルートのホテルの窓から見える風景は、爆撃を受けて破壊された建物です。破壊された建物であっても、誰かが居るのではないかと感じる様な気配があり、恐ろしいと感じていました。2度と来れないという事が寂しくて、私はこの街のどの様な風景であっても、場面であっても、心におさめておきたい気持ちで見入っていたのです。ベイルートの空港を飛行機が飛び立った時、涙込み上げました。街は暗くても、私には光り輝くフェニキアの魂が見え、心が浮き立ってならないのです。

初めてフェニキア縁の地に行った時の事を思い出しました。スペインのバルセロナに行った時です。マドリードからの飛行機にトラブルがあり、緊張するフライトでした。時間も大幅に遅れました。少し具合も悪くなっていましたが、バルセロナの空港に降り立った時、心地良い風が吹いたのです。何があった訳ではないのに、私はうれしくなり、心がときめき、わくわくし始めたのです。具合が悪かった状態は一変に良くなりました。空港から街を車で走り、海辺に立ち寄った時です。輝く海を指差し、いだきしん先生が「貴方のルーツだよ」とおっしゃったのです。意味は分からずとも、生命の奥で合点がいき、涙があふれたのです。「生きていたので、ここに来れてよかったです」と私は泣きながら話していました。フェニキアに縁がある海だったのです。その時は、フェニキアとは知らなかったのです。次はイタリアのシチリア島でした。オレンジの香りが芳しいシチリア島を歩いている時、やはり意味もなくうれしくて、楽しくて、甘い香りが漂い、心が浮き立ったのです。甘い香りは「恋の香り」と表現するにぴったりな香りでした。空間中に光が輝いていました。その輝きを言葉にするなら「恋」という言葉になります。恋の香りがする空間を歩いていれば、心がときめき、浮き立ってくるのは自然な事の様に感じるシチリア島での経験でした。シチリア島は、フェニキアの居住区だったと後から知り、納得したのです。そして、レバノンです。愛しいまでに胸が動き、恋焦がれる様にレバノンを想うのです。レバノンのある本を読んだ時に一枚の写真が掲載されていました。昔のお城の庭と思われる写真でした。美しい花が咲く花壇と水場です。普通でいえば、お水が出る蛇口の様なものがついている場所ですが、一滴の水が流れる風景に見え、涙があふれる程胸が動き、魂震えたのです。胸の奥から愛しさが込み上げ、魅せられました。レバノンに行けました事は、とてもうれしく幸せでした。2度行けないという事だけが寂しく感じていました。

 ところが私は、何とその3カ月後に再びレバノンへ行く事が叶ったのです。当時もパレスチナとイスラエルの問題がとても心痛む状態でした。ある日いだきしん先生が、ヨルダン大使館に行って相談をしてみたらどうかとおっしゃいました。何を相談して良いか分かりませんでしたが、いだきしん先生がおっしゃる事は実行してみる事が大切です。ヨルダン大使館の方にアポイントメントをとる時、どの様な用件で、とお話したら良いかと考えました。そのままお伝えしたのです。パレスチナとイスラエルの事が気になってと、その件につきましてお話を伺いたくお時間を頂きたいとお話をしました。アポイントメントがとれ、初めてヨルダン大使館に伺いました。パレスチナとイスラエルの問題はどうにかなるものではなく、歴史的な事まで遡って考えないとどうにもならない問題である事、たとえ歴史的な事まで遡って考えても答えがない事をお話下さいました。私は、いだきしん先生の事をお話させて戴き、いつかヨルダンでもコンサートを開催できれば、という気持ちをお伝えさせて戴きました。この時、ヨルダンの文化部につなげて下さる事をお約束下さいました。ヨルダン大使館を出て、エレベーターに乗りました。ヨルダン大使館の上がレバノン大使館だったのです。同行した仲間が、そのレバノン大使館の階を押してしまったのです。エレベーターの扉が開きました。そこは既にレバノン大使館でした。エレベーターを降り「何方ですか」と尋ねられ、私は「高麗です」と申し上げました。「どちら様ですか」と尋ねられ、自分の身分を名乗りました。「ご用件は」と尋ねられた時に思わず「ハリリ首相にお会いしたいのですが」と口走っていたのです。考えてもいない事でしたのに口走ってしまった自分に驚き、正に頭が真っ白になってしまったのです。対応して下さった日本人の男性は大変驚き、歓迎して下さいました。「お会い出来ない事はないですが、どの様な事でお会いしたいのですか」と尋ねられました。パレスチナとイスラエルの事が気になりヨルダン大使館に行ってきた事をお話しながら、いだきしん先生の事をお話させて戴きました。その後は何を話したかよく覚えていないのですが、その男性は大変驚くばかりで感心しておられました。「私は、アラブ人をよく知っているので大概の事には驚きませんが、アラブ人よりすごい女の人が来た事に大変驚いている」と何度もおっしゃいました。その日は御暇し、会社に帰る途中にその男性から電話がかかってきたのです。「大使が貴方にとても興味をもっておられ、お会いしたいとおっしゃっています」とのお電話だったのです。大変驚きながらも私は大使にお会いしに行ける事がとてもうれしく感じ、伺う事を即答致しました。お約束の日は父の命日、11月1日午後1時とさせて戴きました。その理由は「高句麗伝説」のフォトブックとビデオを制作しておりました。その完成が11月1日までにはということでして頂いていますので、11月1日であれば両方完成しているのでお届け出来ると考えたからです。11月1日を前にし「高句麗伝説」のフォトブックとビデオは完成しました。この年の5月には、いだきしん先生とイスラエルに行く事を計画しましたが、政情を見、今は見合わせた方が良いとの、いだきしん先生のご判断によりイスラエル行きはやめて、その時間を台湾へと旅立ったのです。「高句麗伝説」のビデオには、台湾で撮影した映像が入っています。とても懐かしいと感じる漁港の風景や、美しい滝や水が流れる風景が入っています。台湾では心が温もり、昔の日本を思い出す様な、といっても自分は知らない、生まれる前の日本ですから知る訳がないのに、その様に表現をしたくなる空気や香りがするのでした。楽しい旅という思い出とし残っています。11月1日の何日か前にレバノン大使館から電話がかかってきました。NPO高麗は認証されていない団体であるとおっしゃいました。「さすがの高麗さんでも、NPO高麗が認証されていない限りは、大使はお会いする事は出来ないです」と言われました。私は、認証されていると聞いていましたので大変驚き、何かの間違いだという事をお伝えしました。が、レバノン大使館は「認証されない限りは、お会いする事は出来ません」という事で、私は電話を切り、事実確認を急ぎました。確かに認証されていなかったのです。大変驚きました。認証の申請業務を代行してくれた会社の方に連絡をすると、その方も驚いていました。認証されているはずであると答えましたが、認証されていないという事を伝え、確認してほしいと依頼しました。それも11月1日には認証されていないといけない事を伝えました。急いで内閣府に確認をして頂き、認証出来るという事になりました。内閣府までこちらのスタッフに行ってもらい、認証されるのを待ったのです。何とぎりぎり11月1日午前11時に認証されました。レバノン大使とのアポイントメントは午後1時でしたので、間に合う事になったのです。晴れて「NPO高麗 代表 高麗恵子」とし、レバノン大使に会いに伺いました。続く…