世界伝説 第8弾 「今」

父が亡くなった日の、いだきしん先生のコンサートの時に、コンサート会場に着くと、いだきしん先生は「お父さんの縁で出会ったのだから、お父さんがいなくなってしまって縁が切れるかもしれないから、しっかりするように」という内容のお話をされました。私は、何の事か分からずに、父の死の悲しみに加え、更に胸に重しがかかり、落ち込んでしまったのです。いだきしん先生に出会ったのは私で、父はいだき講座を受けていません。先生がおっしゃる事は、この様な意味ではない事はすぐに分かり、その事を受け止めようとしました。私は、高句麗の魂がずっと生命を守り続け、先生に出会わせてくれたと感じています。それは、自分の人生を振り返り、どう考えても、ある存在があってこそ生きてこれた人生で、守られてきた事は生命で感じているのです。それ故に、父のご縁でと、いだきしん先生がおっしゃる事は受け止めるのです。また、いだき講座は父が経営するアパートの2階に住んでいた私の自宅から始めました。いだきしん先生は受講生でお体の不自由な方を背負い、階段を上られ、その方を部屋まで連れてきて下さいました。私は知りませんでしたが、いだきしん先生は、階段を上っている時に、ある視線を感じたとおっしゃいました。その視線は、温かくて、やさしかったとおっしゃいました。父が見ていたと、いだきしん先生はおっしゃったのです。普通は男性の視線は、いだきしん先生の様に人の痛みも苦しみも全て同じになって分かり生きている方にとっては、痛いとおっしゃいます。対象化して見ている意識で生きる事が当たり前の世の中になっています。人の事も、いだきしん先生の様に生命ひとつ、という状態で生きる事は分からなくて、人は人、自分は自分と人の事は対象化して見る存在となっています。木や花や自然の生命も、本来であれば生命ひとつで生きていますが、見てしまった時には自分の生命とはかけ離れた存在となってしまっています。対象化する意識という言葉を理解するには、日常生きているあらゆる場面で行っている事ですので、あまりに当たり前となってしまっている為に、中々言葉を聞いただけでは理解出来ない状態となっています。が、生命ひとつである事、愛を経験した生命は、対象化して見られると身が痛いという事を私自身も分かる様になりました。父の視線は、温かくて、やさしかったと先生がおっしゃった事がとてもうれしく、安堵しました。そして、この人が先生をここに呼んだのだという内容のお話もされたのです。私が先生に出会い、いだきをさせて戴いたのですが、人間はそれだけで生きている存在ではなく、沢山の働きの中で生き、動いているのだという事は、今までの人生でもよく分かっていました。父の縁で先生に会えたという事を生命の奥で受け止め、しっかり生きようと、ただ必死で自分を支えていました。しっかりしないと自分は飛ばされていっていた事を、その後倒れた事によってよく分かりました。倒れた時、感じていた事は、私は凧の様だという事です。大空を自由に飛んでいる様に見えても、凧糸によって繋がれていて、父がしっかりと操縦していてくれていた様に感じたのです。その凧糸がプツンと切れて、私は地に落ちたという様なイメージがしたのです。故に、白頭山に行った後「自分の足で歩いた事がない」という生命の言葉が聞こえたのだと分かりました。常に父に守られ、支えられ生きていたのです。自分で自由に、勝手に生きている様であっても、守られていた事は、その後の色々な事からもよく分かる事となりました。いだきを始めた頃、父のアパートでしたので、あまり隣近所を気にするという事はなく、いだき講座を行っていました。講座ではピアノを使いますので、ピアノの音が隣近所に聞こえます。時には一日中、講座にて受講生の運命を解放する日がありますので、ずっとピアノが鳴り響いていたのです。深夜まで弾く事もありました。住人から苦情があったそうですが、父は、私には言わなくていいと言っていたと、母から聞きました。この様にいつも父に守られながら、いだき講座もやってきたのだという事が分かってきたのです。これからは、自分で生き、自分でいだきをしていくのだという事が日に日にわかり、しっかりしなければいけない気持ちで一杯でした。1998年5月に「本音で生きて下さい」の本を出版致しました。最初、100万部販売を目指しスタート致しました。が、父が亡くなる前に、父に本を出版した事を知らせに行った時に「この本を100万部売る」と私が言った時、父は首を振り「200万部」と言ったのです。父は、言語中枢が切れてしまいましたので、中々上手く言葉を発する事が出来ませんでしたが、私には何を言っているかが分かりました。「200万部?」と聞き直した時、父は深く頷きました。200万人の人が本音で生き始めたら、世界は良くなるという事を自分は受け止めました。その後、時々父に会いに行った時に「どの様に売ったらいいのかしら」と私が尋ねると、父は「売ればいい」と一言、言うのでした。その通りです。どの様にもこの様にもなく、売ればいいのです。私は、父母が亡くなった後、「本音で生きて下さい」の本を売る為に講演会活動を日本全国で行いました。それは、電車の乗り継ぎ2~3分というぎりぎりのスケジュールを組み、目一杯動きました。ある時は午前中、広島で講演会をし、新幹線に乗り移動し、午後には岐阜で講演会をするというスケジュールの時もあり、時間に使われている様な感覚は、とても身に痛く感じ、倒れた事も何回かありました。が、父母の死を受け止め難く、不安定な精神状態でありました私は、目一杯動く事によって、新しい人生を生きようとしたのです。

1999年の8月には、ストックホルムで先生のコンサートをする為に打合せに向かいました。ストックホルムの空港に着いた時に、いだきしん先生は「お父さんも一緒に来たね」とおっしゃいました。私は、残念でしたが、父が一緒に来た事を感じられずに、情けないと項垂れました。

北欧の夏は寒く、皮のコートや皮のジャンパーを着ている方がほとんどです。私は、恥ずかしくも夏の衣類を持って行きましたので、場違いな服装をし、寒いストックホルムの街を歩いたのでした。ストックホルムの市長さんにお会いした時、どの様なお話をしたのかは覚えていないのですが、亡き父と似ている様に見え、ただそれだけがうれしく感じたのでした。ストックホルムでは、何を感じ、どう過ごしたかは覚えがないのです。ただ悲しみを耐えるのに精一杯だった事だけ覚えています。帰路にデンマークを回り帰ってきました。デンマークでは、御伽の国の物語を書いてみたい気持ちが生まれ、心安らいで過ごせました事がありがたい事でした。そして、11月には本番のコンサートへと向かいました。この時、フィンランドに行きました。深い森の中、木々の精と語らいながら過ごす時は心癒されました。

フィンランドからバルト三国のエストニアへ向かいました。フェリーに乗って行くのでした。自分は、船や水の上が苦手です。とても怖い旅でした。やっと、エストニアに降り立ち、街を歩きました。人々は悲しい瞳をし、寒さの中、とても寂しい空気が漂い、歩くだけで寂しく、悲しい気持ちになりました。エストニアの教会に入り、パイプオルガンの演奏を聴きました。私は、過去を表現するパイプオルガンの音を聴き、地に落とされました。過去には希望はなく、当然、未来はありません。ここでは生きていけないと、胸が塞がれる程苦しく、重くなりました。

そしてスウェーデン、ストックホルムでのコンサートを迎えました。シルビア王妃にご参列賜りました。美しい王妃とまた、賢く美しい秘書がご一緒にご参列下さいました。いだきしん先生の事を「イエス・キリストの様な御方」と労って下さいました。前の日には、ノーベル賞授賞式が行われるストックホルム、シティーホールにて、前夜祭が行われました。スウェーデンは、コンサートのタイトルの様に水と光を感じる美しい地です。スウェーデンから北極圏、ノルウェーのトロムソに向かいました。オーロラが見える地と聞いています。北極圏、トロムソの教会にて、いだきしん先生のパイプオルガンのコンサートが行われました。

朝日が昇り、午前11時には日が沈み、ほとんどが夜の時間です。暗い海を見ていると、海の底に落とされる様な不安や恐怖、悲しみを感じました。あの時の海の色と音を忘れる事が出来ません。トロムソの教会にて、いだきしん先生の音は「今」でした。ここは生きていく世界です。ここで生きれば生きていけると、父母亡き後、初めて生きていける感覚に包まれ、生き返りました。いだきしん先生が「今、今の瞬間瞬間を即興演奏します」とずっとおっしゃってきた事が、生命をもって分かりました。「今」より生きていく事は出来ない事を、父母が亡くなるという最も悲しい経験をした私は、生命をもって分かりました。続く…