世界伝説 第5弾

母が亡くなり、初七日もしない頃、かねてより再び五女山へ行く計画を立てていましたので、五女山への旅に旅立ちました。大連に降り立ちました。大連にて一泊し、陸路を五女山へと向かうのです。この度の旅は、高句麗の遺跡や古墳を保護していきたい気持ちから中国人の方に依頼して旅の計画を作って頂きました。テレビ局の撮影クルーとして行くお話を聞きました。詳しくは、自分は知りませんでしたが、間に入って下さった方がその様におっしゃっていたのです。日本からカメラを撮影する人やプロデューサーも同行しました。陸路を走れど走れど中々五女山には辿り着けませんでした。丸一日かかって辿り着き、長旅でしたので疲れ果てていました。五女山の麓のホテルに到着すると、入口に横断幕が掲げられてありました。中国語で「歓迎 高句麗王直系 高麗恵子様」と書かれていると教えて頂きました。そして、遼寧省の副知事が出迎えて下さいました。私は特別室を用意して頂き、特別待遇によりおもてなしを受けました。朝も昼も夜も副知事が同席し、共に食事をしたのです。遼寧省の方々と会議をしました。遼寧省の歴史や特産品、様々な情報を教えて頂きました。そして、午後にはバスに乗って桓仁県を案内されました。私は五女山に行く為にこの度の旅に出ましたので、五女山に行けると思い込んでいました。母が亡くなり、気持ちの整理がつかないまま、悲しいままに五女山の麓に行きました。五女山にもう一度行ければ、生きていけるかもしれないと、それだけが希望で旅に出たのでした。兎に角、五女山に行きたい気持ちよりありませんでした。五女山に行く予定のバスは、五女山には連れていってはくれませんでした。

夜が来てまた夕食を頂き、また朝が来て朝食を頂き、バスには乗っても五女山には連れていってもらえませんでした。五女山の麓は、中国の田舎町です。通りには屋台のお店が沢山並んでいます。道端で果物を売る人、饅頭を売る人、野菜を売る人…私が知らない昔の日本の様だと感じて、とても懐かしく感じました。母が若い頃、若しくは子供の頃、日本はこの様な状態だったのではないかと感じ、母を想いました。母が死んだ事を受け止められずに母の姿を探し始めるのです。母に似た人を見つけては近づき、母でない事を知り落胆し、涙し…を繰り返すのでした。そして、最後にはホテルの部屋に戻り、ベッドに横になり、涙ばかりがあふれ、枕元が濡れるとは真にある話なのだと自分で経験しました。五女山に行ければ、この悲しみもきっと抜け出していけると五女山に行く事だけを望みました。翌日も五女山に行く為にバスに乗りましたが、鍾乳洞の前にバスが止まりました。私は、耐えていた事が限界となり叫びました。「私は鍾乳洞に行きたい訳ではありません。五女山に行きたいのです。」と叫びました。そして、薄々気づいていた事を言葉にした時に、現実を認識したのです。毎食、接待という形で食事を共にしていました副知事さんやお役人方は、接待という名の監視であると感じていたのでした。ただ監視されているだけで、五女山に行く事はないと、はっきりと感じたのです。当時の中国の法律では外国人は入ってはいけないという事を知りました。故に、間に入った中国人の方が様々な事を考え、道を作ろうとしていたのだという事も分かりました。が、この延長には道はないと自分は、はっきりと感じたのです。

私は「全ての予定を止めにし、日本へ帰る」と叫びました。いだきしん先生は同意して下さいました。そのままホテルに戻り、身支度をし、荷造りをし、車の手配をし桓仁県を発ちました。見送る中国人の関係者の方々は、私達を睨みつける様にし見ていた姿が忘れられません。五女山の旅の先は、太白山に行く予定でした。太白山は中国側からの呼び名でありますが、北朝鮮側からの呼び名は白頭山です。6月に白頭山へ行き、国創りの源である美に出会いました。もう一度白頭山へ行ける事は、とても楽しみでありましたが、それよりも、この度は日本へ帰ると決めたのです。五女山には行かせてもらえず、五女山を眺める湖の畔にて詩を書いた時、胸の内は切ない気持ちと悲しみで一杯でした。生まれた言葉は「まがいものは排除せよ」という言葉でした。ノートに「まがいものは排除せよ」と書きながら、胸の奥がドキンとする音が聞こえてくるのでした。大変驚きました。どの様な意味なのかと思うような芝居はやめろ、と渇を入れられている様な感じがあり、分からないとは言えないと受け止めました。自分の内のまがいものを排除せよ、とその時は受け止めました。この言葉は、その後の人生の様々な場面で現る言葉です。内も外もまがいものは排除しなければいけない事を分かる経験が続いています。私は、先祖のメッセージと受け止めています。五女山を眺める麓でなければ、決して生まれる言葉ではなかったということをよく分かっています。必ず出直す事を心に誓い、泣く泣く桓仁県を後にし、瀋陽へと向かいました。瀋陽で日本に一番早く帰れる飛行機を探し、予約をしました。中国南方航空の関西空港行きが一番早く中国を発ち、日本へ着くフライトでした。翌日、飛行機に乗り込みました。座席に着く前に、いだきしん先生が突然「貴方の胸の内の切ない気持ちを音楽にするからね」とおっしゃいました。一瞬、何の事か分かりませんでしたが、ありがたくて胸震え、涙あふれました。私は、生きていける、と胸の内に光を感じたのです。いだきしん先生は、私に「今、日本に帰る事は正しい決断だったと」おっしゃって下さいました。「あのままいたら何が起こるか分からなかった」とおっしゃいました。私も、その様に感じ、身が震えました。あのままいたら拘束される危険を、身は感じていたのです。

関西空港に着きました。いつもの習慣で、母に電話をかけました。コール音もない事に涙があふれました。母はこの世にいないのだという現実を目の当たりにしたのです。いつも海外から帰ってくると、すぐに母に無事である事を連絡しましたが、もう無事に帰ってきても連絡をする人はいないのだと、寂しくなるばかりでした。打ちひしがれたままに、関西空港から羽田空港へ向かいました。そして、帰路につく途中、レストランに寄りました。その時、いだきしん先生が、悲しみに沈んで下を向いていた私に「もう一つのシルクロードを辿る旅はどう」とおっしゃったのです。私は瞬間、生きていけると光を見、頭を上げたのです。私には「もう一つのシルクロード」という言葉が高句麗の更にルーツを辿る、と聞こえたのです。やってみたいと感じました。そして、それをやらずには私は生きる事はないという事を生命で感じていました。私は歴史の真実を辿る旅をしたいと心から望みました。そして、高句麗の源を辿る旅をしたいと心に決めました。続く…