母が亡くなり、初七日もしない頃、かねてより再び五女山へ行く計画を立てていましたので、五女山への旅に旅立ちました。大連に降り立ちました。大連にて一泊し、陸路を五女山へと向かうのです。この度の旅は、高句麗の遺跡や古墳を保護していきたい気持ちから中国人の方に依頼して旅の計画を作って頂きました。テレビ局の撮影クルーとして行くお話を聞きました。詳しくは、自分は知りませんでしたが、間に入って下さった方がその様におっしゃっていたのです。日本からカメラを撮影する人やプロデューサーも同行しました。陸路を走れど走れど中々五女山には辿り着けませんでした。丸一日かかって辿り着き、長旅でしたので疲れ果てていました。五女山の麓のホテルに到着すると、入口に横断幕が掲げられてありました。中国語で「歓迎 高句麗王直系 高麗恵子様」と書かれていると教えて頂きました。そして、遼寧省の副知事が出迎えて下さいました。私は特別室を用意して頂き、特別待遇によりおもてなしを受けました。朝も昼も夜も副知事が同席し、共に食事をしたのです。遼寧省の方々と会議をしました。遼寧省の歴史や特産品、様々な情報を教えて頂きました。そして、午後にはバスに乗って桓仁県を案内されました。私は五女山に行く為にこの度の旅に出ましたので、五女山に行けると思い込んでいました。母が亡くなり、気持ちの整理がつかないまま、悲しいままに五女山の麓に行きました。五女山にもう一度行ければ、生きていけるかもしれないと、それだけが希望で旅に出たのでした。兎に角、五女山に行きたい気持ちよりありませんでした。五女山に行く予定のバスは、五女山には連れていってはくれませんでした。
夜が来てまた夕食を頂き、また朝が来て朝食を頂き、バスには乗っても五女山には連れていってもらえませんでした。五女山の麓は、中国の田舎町です。通りには屋台のお店が沢山並んでいます。道端で果物を売る人、饅頭を売る人、野菜を売る人…私が知らない昔の日本の様だと感じて、とても懐かしく感じました。母が若い頃、若しくは子供の頃、日本はこの様な状態だったのではないかと感じ、母を想いました。母が死んだ事を受け止められずに母の姿を探し始めるのです。母に似た人を見つけては近づき、母でない事を知り落胆し、涙し…を繰り返すのでした。そして、最後にはホテルの部屋に戻り、ベッドに横になり、涙ばかりがあふれ、枕元が濡れるとは真にある話なのだと自分で経験しました。五女山に行ければ、この悲しみもきっと抜け出していけると五女山に行く事だけを望みました。翌日も五女山に行く為にバスに乗りましたが、鍾乳洞の前にバスが止まりました。私は、耐えていた事が限界となり叫びました。「私は鍾乳洞に行きたい訳ではありません。五女山に行きたいのです。」と叫びました。そして、薄々気づいていた事を言葉にした時に、現実を認識したのです。毎食、接待という形で食事を共にしていました副知事さんやお役人方は、接待という名の監視であると感じていたのでした。ただ監視されているだけで、五女山に行く事はないと、はっきりと感じたのです。当時の中国の法律では外国人は入ってはいけないという事を知りました。故に、間に入った中国人の方が様々な事を考え、道を作ろうとしていたのだという事も分かりました。が、この延長には道はないと自分は、はっきりと感じたのです。