世界伝説 第四回

 国創りの源は美と体得し、北朝鮮から帰った私は、新しい国創りをしていく意欲と力にあふれていました。ところが急に腰が痛みはじめ、歩く事もままならない状態となってしまいました。いだきしん先生に出会い、生まれつきの運命を解放して頂き、生命の深奥に輝く真の光であります真の自分を取り戻してからは、生命の声である本音を分かり生きてきました。体の苦しい所や痛い所があれば、体に問い、何故痛いかを考えると原因が分かります。生命は、いつも生きていける様に働いてくれているのに、その働きを無視したり、分からなかったり、抑え込んでしまうと、体は痛みや苦しみをもって間違っている事を教えてくれていると分かります。分かると同時に、痛みも苦しみもなくなっていくのです。そして、本当はどう生きたかったのかという生命の声である本音が分かると、新しい力が生まれ、一変に生きる世界も次元も変わるのです。いつも本音を分かり、体も治してきた私は、腰の痛みをずっと問うて考え続けました。いつもはすぐに分かる本音も、この時は分からずに、苦しみや痛みは続きました。体に問うと「自分の足で歩いて生きた事がない」と聞こえます。「自分の足で歩いて生きた事がない」という言葉の意味が分からずにずっと苦しんでいたのでした。もちろん、自分の力で生きた事がないという意味とは分かりますが、私はいだきしん先生に出会ってから、運命が解放され、本音で生きる様になり、本音で生きてきましたので、自分で生きてきたと考えてきました。初めてしたピアノの営業の仕事では、人に会う事は人間修行と考え、自分を分かる事で何方にも断られなくなり、東京都でナンバーワンになりました。自分で生き、働き、お金も稼いできたので、自分で生きてきたと思っていました。故に「自分の足で歩いて生きた事がない」と生命では聞こえる声を、受け止める事が出来なかったのです。が、ある日、生命から聞こえる「自分の足で歩いて生きた事がない」という声をそのまま生命で受け止めました。丁度その時、大阪の帝国ホテルにて私の「本音で生きて下さい」講演会を開催する時が来ました。その前に東京で講演会を開催した時、恥ずかしくも車椅子に乗り、座ってお話をさせて戴きました。本音で生きる事で体も治り、自分を活かし、健康で自分を実現する人生を生き始めたお話をしている私が車椅子に乗っている姿はご参加者の方々からは、不思議と感じておられる事が見てとれました。とても申し訳なく感じ、二度とこの様な事はしてはいけないと心に誓いました。大阪での講演会も自分の足で立ってしたかったのですが、腰が痛くてとても立てる状態ではなかったのです。スタッフが演壇に椅子を用意してくれました。が、本番直前に、いだきしん先生が「自分の足で立って話しなさい」と一言おっしゃって下さいました。その時の私の状態では、立つ事も歩く事もできませんでした。が、東京での講演会の様な事は二度としてはいけないと決めていたので、先生のおっしゃる様に、やるよりないという気持ちになって臨みました。会場の照明を消して頂き、演壇の近くまでは車椅子で移動致しました。演壇に登る時、一歩一歩やっと歩き、演壇に登り、立ちました。そして、本音で生きる人生をお話し始めました。自分の腰を支えていてくれている沢山の存在が見え、感じました。私は目に見えない世界が見えるので、自分の腰を支えてくれている存在がはっきりと光となって見えました。体は、支えられていたので、苦も無く、痛みもなく立つ事が出来ました。ありがたくて胸の内は涙にあふれていました。感謝の気持ち一杯で講演会を無事に終わらせて戴きました。この経験をもって、やはり自分の足で立った事も歩いた事もなかったという事が分かりました。いつも目に見えない存在や魂、両親に支えられて生きているので生きてこれたのだという事が生命をもって分かりました。これからは自分の足で立ち、自分の足で歩いていけると今までにない人生が始まった事を経験しました。自分の足で歩きはじめ、翌月7月はギリシャへと旅立ちました。その年の10月にギリシャにて、いだきしん先生のコンサートを開催する予定でしたので、打合せの為に行きました。アテネに着き、最初にコンサートの開催候補地でありますパルテノン神殿に行きました。パルテノン神殿の真下にあるヘロデスアティコス音楽堂にてコンサートを開催する予定でした。ギリシャの夏は暑く、日差しは明るく、眩しい位です。私は、日差しが明るければ明るい程、心が暗くなっていく自分に戸惑いました。パルテノン神殿の丘に立ち、アテネの街を見下ろす風景を見た時、涙がほとばしりあふれます。子供の時吹いていた風が吹き抜けました。子供の時いつも「この風が吹くから生きていこう」と感じ、辛い時も生きてきました。その風が吹いたのです。理由が分からず、涙ばかりがあふれました。

心の中で「どんなに辛くても、この風が吹くから生きていこう」と子供の頃に言っていた事と同じ言葉を呟いていました。打合せが終わり、パルテノン神殿が見える丘にあるレストランにて、昼食をとりました。パルテノン神殿を眺め、野外のレストランにて心地良い風が吹き抜ける空間でありましたが、私の心は暗くなるばかり、重くなるばかりで、戸惑うばかりでありました。あまりに苦しくて思わず、いだきしん先生に「胸が苦しくて耐えられない」とお話しました。いだきしん先生は、しばらく目を閉じ、そしておっしゃいました。「地球で生きている事が苦しいのではないの。宇宙を感じれば良い。」とおっしゃいました。何の意味か分からず戸惑いました。意味は分からずとも、胸の内は生きている事が苦しい状態でした。この苦しみは、地球で生きている事が苦しいからかと、分からないながらも受け止めました。そして、宇宙を感じようと試みました。宇宙をどの様に感じていけるのかは、分かりませんでしたが、心の中で「宇宙」と呟きました。すると、塞がった胸が広い空間につながり、行き場を感じる様になり、苦しみのままで留まらずに動き始めたのです。ギリシャでは、胸が苦しくてたまりませんでしたが、その都度宇宙を感じ、その場その場を通り抜けていきました。そして、アテネからテッサロニキへと向かいました。アテネは乾いた土地でありましたが、テッサロニキは木々の緑が豊かで心が潤いました。胸の苦しみも、宇宙を感じる事で何とか耐えられる状態を覚えはじめました。

テッサロニキでは、いだきしん先生はアトスの聖山に行かれる予定でした。女人禁制でしたので私は行く事は出来ず、一人でテッサロニキに残るよりありませんでした。こんなに胸が苦しく、重く、鬱状態で、異国の地にて一人で過ごす事が出来るのだろうかと不安で一杯でした。いだきしん先生がアトスの聖山へ向かう前夜、夕食が終わり、部屋に戻る途中、真っ暗なホテルの廊下を歩いている時、胸の苦しみは、あまりに耐えられずにその場にかがみこみ泣き出してしまったのです。自分ではどうする事も出来ない苦しみに恐怖さえ感じながらも、かろうじて立ち上がり部屋に戻りました。こんな状態で一人で過ごせるのだろうかと不安でなりませんでした。まだ日が昇る前の早朝、いだきしん先生がテッサロニキへ行く出発をお見送り致しました。いだきしん先生は「光を感じていれば大丈夫」とおっしゃいました。私は頷き、光を感じる事に尽くそうと、それだけが支えでした。お送りしてから部屋に戻り、気持ちの向くままに動きはじめました。化粧をし、身支度をし出掛ける準備をしました。そして、気持ちの向くままに街を歩きはじめました。エーゲ海の風に触れたくて、エーゲ海の畔に行きました。パラソルが沢山並んでいます。カフェが立ち並んでいました。一つのパラソルの椅子に座り、コーヒーを注文しエーゲ海をずっと見ていました。生まれるままに詩を書き、過ごしました。詩を書き進めていると、突然胸の中が動きはじめ、見えるがままの光景を詩に表しました。高句麗のお姫様の詩を書いていました。泣きながら詩を書き、また次に見える光景を詩に書き、次第に号泣し始めました。この詩が「高句麗伝説」で詠んでいます「宮廷の恋」という詩です。お姫様の宿命を悲しみ、永遠に生きる道を選んだお姫様の人生は、私に受け継がれている事を自分は子供の頃から感じていました。国の為に生きる事が姫の宿命であり、お姫様の恋は、この世では叶う恋ではないのです。詩に書き表し、涙を流し尽くし、胸が開いたのです。とてもすっきりしました。夕方までエーゲ海を眺めながら詩を書き、とても豊かな時を過ごしました。時刻でいえば夜になりましたので、ホテルに帰りましたが、夜の9時になってもマケドニアの太陽は明るく輝いていました。ホテルのテラスにて、海に沈みゆく太陽を眺めていました。その時書いた詩は「マケドニアの太陽」という言葉になりました。ここはギリシャですが、私にはマケドニアの太陽と見え、詩に表したのです。異国の地でたった一人ここにいる自分の運命を見ました。ふと、母に電話をしようと思いたち、日本にいる母に電話をかけました。次第に沈みゆく太陽を見、母と話ました。涙ばかりが込み上げてきます。母はただ「ありがとう」と繰り返し言うだけでした。私も「ありがとう」と言い、涙ばかりがあふれます。この事を忘れる事は出来ません。心にずっと焼きついたマケドニアの太陽が海に沈む光景です。日本に帰った翌日、母は亡くなりました。ギリシャで胸が塞がり辛かった事の原因は、母の死を予感していたのだと分かりました。過去の何かにより苦しかったのではなく、母の死を予感したのだと分かったのです。自分の足で歩きはじめたら母が亡くなりました。生命は生きていける様に働き、自分の足で歩ける様にと、その機会を作って下さったのだと分かり、頭を垂れます。母が亡くなっても生きていける様に自分の足で歩ける様にして頂いたのだと分かりました。続く…