生まれて初めて高句麗の地へ行った5月。そして、翌月6月には高句麗最後の都があった北朝鮮へと旅立ちました。この度も、北京まで行き、北京から北朝鮮の航空機、高麗航空に乗って行きました。機内でのサービスに驚きました。食事の前に大福が提供されたからです。父も私も大福が大好きで、食事の前に食べる習慣があったからです。現在の北朝鮮には高句麗の遺民はいないと考えますが、食習慣は残っているのかと感じ、不思議な気持ちになりました。いよいよ北朝鮮、平壌の空港に降り立ちました。機内から降り、北朝鮮の地に降り立った時、いだきしん先生は「おめでとうございます」とおっしゃいました。「お父さんが喜んでいるよ」とおっしゃって下さいました。胸の内で「父」と感じるだけで、胸が動き涙があふれます。きっと父も喜んでいると分かる瞬間でした。そして、いだきしん先生は一緒に同行した一人一人に握手をしはじめたのです。北朝鮮の地に降り立つ事は特別な事なのだと感じました。北朝鮮では、常に公安がついていますので、緊張する旅でありました。高麗ホテルに宿泊し、目に見える様々な所に「高麗」という文字が書かれています。
高句麗古墳に行った時には、感動しました。古墳をきちんと管理し、保護している状態に感謝しました。中国にあった高句麗古墳は、野晒しでした。何の手入れも保護もしていない様子が一目で分かりました。故に私は、高句麗の歴史を後世に伝えたい気持ちが生まれ、遺跡の保護をする活動がしたく、再び3カ月後の8月に高句麗の地へ行く事を計画していたのです。高句麗古墳の中に入ると背も立たない位の狭い古墳の中で、私は宇宙を感じました。高句麗人は内面が宇宙に通じて生きていたのだと分かりました。高句麗古墳の壁画は、現在世界遺産になっています。世界遺産になる前から日本で「高句麗壁画展」という展覧会が行われた時、生まれて初めて見た壁画のあまりの美しさ、神顕わる絵に強い衝撃を受けました。四神図と言われています、青龍、玄武、白虎、鳳凰は見事なまでに神を感じます。この様な絵を描ける高句麗人は、何者なのかと感じる大変神々しい絵です。内面が宇宙に通じ、神と一体であったので描けたのだという事を古墳の中に入り、初めて分かる事が出来ました。また、高句麗の暮らしが描かれている古墳もあります。皆で食事の支度をしたり、舞踊をしたり、楽器を弾いたり、壁画から高句麗時代にどの様に暮らしていたかが分かるものがあります。ふと「今暮らしている様に、この暮らしが死んでも永遠に続きます様にと壁画に高句麗の暮らしを描いた」とのメッセージが聞こえました。今の暮らしが死んでも永遠に続く様にと願う高句麗の暮らしは、とても豊かで素敵な暮らしだったのだと感じ、涙があふれました。そして、心の奥底で安堵しました。先祖がその様に暮らしていた事を分かっただけで安心し、幸せを感じたのです。
穏やかな平野が続く北朝鮮の風景は、昔、高句麗人がこの土地で皆が生きていく場を作ろうと働いていた事を感じる温もりがあります。平壌から白頭山に向かう軍用機に乗り込みました。飛び立ったものの、残念ながら天候が悪く、再び平壌に戻ってきました。そして、平壌市内を公安に連れられて見学しました。地下鉄やデパート等々の見学です。そしてまた翌日、再び軍用機に乗り込み、白頭山へと向かいました。この日は降り立つ事が出来ました。白頭山の麓にて、木の葉を燃やし焼き芋を作りました。こんな所でさつまいもを焼いて、焼き芋を食べるなんてうれしい事とうきうきし始めました。焼き芋を食べながら、公安の人と並んで歩いていました。私に高句麗の歴史を教えてくれていました。私は、全部知っている話ですので、よく分かりました。そして、相槌を打つ言葉から公安の人は驚きながら「よくご存知ですね」とおっしゃいました。私は「それはそうですよ。私は高句麗の子孫です」と答えたのです。その時の沈黙がとても恐怖を感じました。その方がどの様に感じたのか、意味が分からなかったのか、もしくは意味が分かったのか、見当のつかない沈黙が続きました。私の体は震えはじめ、警戒する様になりました。高句麗の子孫である事が知れたら、私はどうなるのかと考えました。パスポートは全て公安が預かっています。日本と国交がない国で何かあったらどうなるのかと考えはじめ、不安を感じはじめました。その時から迂闊に高句麗の話はしない様にしました。ホテルの部屋に入ると、拘束される様な恐怖を感じ、万が一の時に備えて、ホテルの部屋の中にある机や椅子をドアの所に並べました。窓にも並べました。万が一誰かが入ってきた時は大声を出すと決めていました。眠れぬ夜を過ごしました。寝ていたら、万が一の時に動けないと不安を感じ、とても眠れるものではなく、寝ずに一夜を過ごしました。まだ薄暗い時、白頭山に登るバスに乗りました。