世界伝説 第150弾

再びウラジオストクへ行く日が訪れました。厳寒の時から数カ月後、6月に再びウラジオストクへと旅立ちました。カフェの展開の為に話し合いに行ったのです。空港にはカフェ事業を共にしようとする男性が2人迎えに来てくれていました。もちろん、現地で私達を引き受けて下さるロシア人男性と日本から一緒に行き、今はウラジオストクに住むようになったロシア人女性も来てくれています。この時は具体的にカフェの展開の話に集中しました。私は丁度この頃、京都の御池通りを歩いていた時、いつもと同じ町並みを眺め、通りを歩く人を見ていました。いつもと同じに自転車に乗り、道を歩き、コンビニに入り買い物をし…この先は滅びとはっきり見えたのです。誰もがやっているこの生活を続けていったら滅びゆくとはっきり見えた時に、人が生きているのと同じに生きたら滅んでいくという事に恐ろしさを感じ身が震えました。この様に生きる事がすっかり習慣となって身についてしまっていますが、今までとは違う生き方をしなければ滅んでしまうという恐怖を感じました。それから毎日何をしていけばいいのかどの様にし新しい生き方を見つけたらいいのかを考えるようになりました。丁度、ウラジオストクに行く機会に恵まれましたので、全く知らない異国の地で仕事を作って生きていくのも新しい事の始まりかもしれないと考えたのです。2度目の時はその気で町を眺めました。が、ホテルからいつも朝食の時に窓の外を見る時、灰色の空に薄暗いさびれた町並みを見る事は未来を感じず、寂しくなるばかりでした。そして、坂道が多いウラジオストクを歩いている時もときめきはなく、灰色の町がとても寂しく感じ、気が重くなるのでした。この地で新しい仕事をし、新しい人生を歩む事は自分には出来ないという事が分かるばかりでした。それでも別れた同胞探しをしにこの地に来ましたのでカフェを作り、共に世界平和実現に向かい活動する同胞に会いたい気持ちは強くありました。この時は、郊外の高原のレストランに連れて行って頂きました。一見自然の中で気持ち良さそうな場所であっても私にはとても身の毛がよだつ様なざわざわする様な感じがあり居心地が悪かったのです。私は、その土地のエネルギーを身に受ける体質なので自然の中であっても人の生きている状態は苦しく、重いという事を感じどこに行っても人間の人生は悲しく、辛いという事を感じるばかりです。ここでも気持ち悪さの方が多く感じてしまい、自然の中の豊かさを楽しむ事は中々出来なかったのです。話も中々進まず、この道は厳しいと感じるミーティングが続きました。ロシアでカフェを作る事は次第に難しいと感じるようになり、ギャラリーを作ればいいのかと考え始めるようになったのです。話はまとまらず、次に来る時までにギャラリーの物件を探しておいてほしいとロシア人に頼み、実りがないままに日本に帰ってきました。次に行く時は、いだきしん先生のコンサートを開催する10月です。あっという間に夏が過ぎ、秋が訪れコンサートを開催する10月が訪れました。日本からもツアーでお客様がお越し下さる事になっています。ウラジオストクで先生のコンサートを聴ける事はただ楽しみよりありません。言葉が通じなかったり、様々な不自由な事があっても先生のコンサートを聴けるという事は何より嬉しく、楽しく、幸せな事です。コンサート会場では宇宙を感じるような映像が流れ、いだきしん先生のダイナミックな宇宙エネルギーを表す演奏と映像が一致していました。とても広大な空間の中で自由に生きる生命を感じ気持ち良いばかりでありました。演奏はあっという間に終わり感動のままに終演を迎えました。コンサート後には私が舞台に上がらせて戴き、ご挨拶をさせて戴きました。

ウラジオストクには同胞探しで来た事、天を地に表す世界平和を実現する同胞を探している事、そして世界平和実現の為にいだきしん先生のコンサートをしている事をお話させて戴くと会場から拍手が沸き起こったのです。いだきしん先生はこの様な表現に反応する国民であるということはすごい事とお話下さり、とてもうれしく感じました。心温かい拍手に包まれウラジオストクでの先生のコンサートは無事に終わりました。やはりコンサートが一番良いです。コンサートを開催すると全て良しと変わるのです。次は、3月2日と予約を入れました。

コンサートが終わり、台風が発生し帰国する飛行機が運休になるのではないかと危ぶまれました。運休になったらハバロフスクまで行くよりないと聞いていました。電車で7時間と聞きました。そんなに長い時間移動し飛行機に乗らなければいけないのはしんどい事だと感じ、何とか飛行機が無事に飛んでくれればいいと祈る様にし過ごしました。予定の日は運休となりました。一日ウラジオストクで何のスケジュールもないままに過ごす事になりました。ふと、以前聞いていた博物館に行ってみる気になり皆で歩きながら博物館へ行きました。驚いた事に高句麗の遺跡が展示してあったのです。

その博物館で高句麗第19代王広開土王という文字を見つけたのです。胸がどきりとする音が聞こえる程驚きました。それも私が心惹かれてならない花瓶を眺めている時にふと案内書を読むと、好太王様の時代の花瓶だったのです。こんなに美しい花瓶を好太王様の時代には作っていたのだと感じ、うれしくて心がときめいてなりませんでした。とっても大事なものを見つけた様で胸の中は喜びに満ち溢れました。

やはりウラジオストクには別れた同胞が住んでいたのだという事を博物館に行き確認が出来たのです。ここで高句麗の遺跡を沢山見る事が出来ました。そして、ここに伝わった高句麗の歴史も知る事が出来ました。台風が来たので飛行機が運休となり、いだきしん先生のコンサート後にこの博物館に導かれました事は、大いなる働きかけと感じます。ここに来る為に飛行機が運休になったとしか考えられない出会いが起こりました。私は博物館は大好きです。隈なく見て歩き、当時の事を想像するだけで夢が膨らむのです。とても楽しい博物館でのひと時を過ごしました。

夕暮れ時に早めの夕食をとり、翌日に備えました。翌日も運休となればハバロフスクまで行かねばなりません。祈る様にし夜を過ごし、翌日は飛行機は飛ぶというニュースに喜びました。一日長くウラジオストクに滞在する事になったのは高句麗の歴史を知る為であると分かり、大いなる働きかけによりこの時を与えて頂き、目的を達成した様な気持ちで日本に帰って来たのです。コンサートの前も歩きましたが、一日空いたこの日も海辺を歩きました。この町は海辺の町であると当たり前に知っている事ですが改めて別れた同胞は海辺の町で生きていたのかとしみじみと感じたのです。次に来る時はギャラリーをオープンする時です。続く…。