世界伝説 第149弾

仙台の自宅で五女山コーヒーを淹れている時、コーヒーからのメッセージは「高句麗は愛から生まれた」でした。高句麗初代の王、東明王様は「天の光受け技量秀で、7歳にし弓を打つこと百発百中、弓の名人朱蒙と名付けられる」。「光輝く人間は周りから妬まれ生命狙われる。母は子を生かす為に子を遠くへ逃がす」。「高句麗伝説」の東明王様の詩で詠ませて頂く内容です。母と今生で別れ、一人で生き始めた宿命は悲しみと感じていました。そして、詩に詠んでいますが「歩けど歩けど大地は女の悲しみに満ち…」と大地は悲しみに満ち、女の涙を吸収していました。悲しみを変えていこうと高句麗を創ったと長い間詩に表してきたのです。が、愛から生まれたのだと五女山コーヒーのメッセージは強く私に訴えるように告げたのです。「愛から生まれた」と言葉にした時、本筋はロシアへの道だと突然ロシアへの道が見えたのです。幼い頃から引き裂かれた悲しみが胸の内に刻まれ、二度と人を引き裂く事のない悲しみを繰り返さない平和な世界を創りたいと望み生きてきました。東アジアをひとつにと心から願い、その道を創りたく活動してきました。高句麗は現在でいえば、中国遼寧省桓仁県五女山が発祥の地です。そして、吉林省、最後の都が北朝鮮。国は滅び王族は日本とロシアに亡命しました。東アジアは先祖高句麗の地であったのに今は行き来も出来ない悲しい状況にあります。東アジアがひとつになる道を創りたく動いている時、私はいつも心が傷つく巡りとなるのです。悲しみから生まれたという気持ちで動いていたから悲しみを繰り返したのだと突然気づきました。愛から生まれたのなら、悲しみではなく豊かな実りを生むと突然見えたのでした。いだきアントレプレナーコースが始まった時に、経営理念を自分で調べた時、「悲しみを解決する」でした。いだきしん先生は、それは理念ではないと、ずっと悲しい事を繰り返すとおっしゃいました。そして、私は考えました。「子供達が生きられる社会を創る」を理念と致しました。お腹の底から力が湧いてきます。そして、どんな事があってもやり遂げていく力はなくなる事はありません。この事を思い出し悲しみを解決する、では悲しみを繰り返しますが愛から生まれたものはどんな事があってもやり遂げると気づいたのです。そして、今までは中国、韓国、北朝鮮にアプローチし、いだきしん先生のコンサートを開催しようと働きかけてきましたが全ては傷つく様な結果と終わるのでした。次はロシアへの道だと見えたままに高句麗滅亡後別れた同胞に会いに行こうと同胞探しをすると決めたのです。

 丁度その頃山元町に作った結工房にウラジオストクから日本に来ている女性が訪れたと聞きました。そして、ウラジオストクでカフェをするならお手伝いできるという内容の事をおっしゃっていたと聞きました。私はまずその女性に会いたい気持ちでアポイントメントを取りました。仙台高麗屋にてウラジオストクからのロシア人女性に初めてお会い致しました。ウラジオストクに行き、別れた同胞探しをしたいと申し上げると、とても理解を示して下さり一緒に行く事になったのです。すぐに話は決まり、一番早く行ける時期は何と厳寒の2月でした。一年で一番寒い時期に行く事になったのです。が、この時を逃すと次の時は中々来ないとスケジュールから考えても分かりましたので、厳寒のウラジオストク行きを決めたのでした。

 初めてウラジオストクに降り立った時、別れた同胞がいる町と心の中はロマンに溢れていましたが、寒いロシアの田舎町でただ平原だけが続く道を空港からホテルに向かう時は寂しいだけでした。心ときめく事も華やぐ事もなくただ真っ暗い中を空港からホテルに向かったのです。ホテルに着いてもすぐに他のホテルを探したいと感じてしまうホテルでした。いだきしん先生も着いてすぐにおっしゃいました。「他にホテルはないのか」と。他にホテルはないと、ここのホテルが極東地方で一番良いとロシアのガイドさんが教えてくれました。最上階のレストランにて食事をとる時、窓の外は真っ暗でただ寂しいだけの町でした。こんな寂しい町に来てしまったと気持ちは複雑でした。寒い冬の夜、寂しい空気漂うウラジオストクの町にて一夜を明かし、朝窓を開けた時に朝になっても薄暗い町でした。漁港が見え、船が停泊しているその風景は悲しく、寂しく、侘しく涙が込み上げるのです。同胞はこの寂しい町に逃れてきたのかと考えると、胸が切なくなってくるのです。そして、私も何のご縁でここに来たのかと考えてしまうのでした。翌日、フィルハーモニーの社長に会いに伺いました。いだきしん先生のコンサートをしたいとお話すると、すぐにのってきて下さりその場でコンサート開催が決まったのです。時は今と自分も感じ、また後日と延ばすと延々と決まらない不安があり、その場でコンサート開催日も決めてしまいました。夢の様な出来事でした。いきなり来て、いきなりコンサート開催が決まるとは想像もしていなかったので夢を見ている様な気持ちでした。会う人会う人に別れた同胞探しに来たと話しました。

 とても楽しみにしていた、前ウラジオストク市長さんとのアポイントメントの時間が来ました。私はこの方にお会いする事をとても楽しみに準備してきました。別れた同胞を探しにきたと話はじめた時に、同席した男性が、その人は私ですと名乗り出たのです。私はすぐに違いますと答えてしまったのです。その方はカザフスタン生まれの韓国人の様でした。韓国の王族の子孫であるという事を話されました。私は、とても別れた同胞と思えずにすぐに違いますと申し上げてしまったのです。が、まさかこんな展開になるとは想像もしていませんでしたので、思わぬ展開に驚くばかりでした。

本命と感じた、前ウラジオストク市長さんはそれ以上話は進まずに、その場はお暇する事になりました。ウラジオストクでお会いした方々とカフェの候補地を探し歩きました。また、同胞と名乗り出た方に、極東連邦大学に連れて行って頂きました。その方はそこで絵を教えていらっしゃいました。ご自身も絵をかかれ個展を開いていらっしゃいました。その方のお陰で極東連邦大学に入る事が出来たのです。吹き抜けのガラスには、凍った海が全面に広がっていました。私はここにカフェを作れたらいいと願いました。世界中の優秀な学生がこの大学に来る事をロシア政府は推奨していると聞きました。優秀な学生がいだきしん先生の音を聴いたアンドロメダエチオピアコーヒーを召し上がれば覚醒するのではと見えたのです。私の本音は「子供達が生きられる社会を創りたい」事です。次世代の為にこの人生を賭けていけるのなら本望と氷の海を見てここに人生賭けるという気持ちが生まれたのです。具体的にここにカフェを作ろうと考え始めました。町中で見つけたカフェの候補地では共に動いてくれた男性達がスクラムを組んで同胞と叫ぶのでした。出会ったら皆同胞なのだと最後は私も嬉しくて、共に円陣を組み同胞探しと叫んで喜び合いました。凍てつく寒さ、肌が切れる程の寒さの中、氷の海の上を歩き過ごした瞬間瞬間、今までの人生にない経験の連続でした。同胞探しの旅は予想外の展開となり、この後どうなっていくのかと次に期待しウラジオストクを後にしました。