世界伝説 第148弾

 私は東北の復興支援の道を作りたく、何をすれば良いかを常に考え探しながら、何より復興支援と考えます心の復興となります、いだきしん先生のコンサートや国創り「高句麗伝説」コンサートを開催するようになりました。ある時、いわきで講演会をする事になりました。東京から一人で車を走らせ、利根川を渡った時に魂の雄叫びが聞こえたのです。それも大群が押し寄せるような勢いと力がありました。足元から鳥肌が立ち、ここには高麗人がいたのだと初めて気づいたのです。東北の地で「高句麗伝説」を開催しようと決め、いわきに着いた瞬間、ボランティアの方に尋ねたのです。「福島で『高句麗伝説』をしますか」と。ボランティアの方は「します」と即答しました。「高句麗伝説」開催が決まりました。「高句麗伝説」は沢山の機材を運び、専門家に依頼しますので、1回の公演ではとても経費を賄えるものではありません。いわき、仙台、岩手県は奥州とこの時は3回連続 「高句麗伝説」を開催しました。仙台のホテルに泊まり、いわきまで行き、またその日は仙台に帰るスケジュールでした。いつもは「高句麗伝説」が近づけば近づく程体調がベストコンディションになっていく事がありがたく、大いなる存在に身を任せ当日を迎えるのでした。仙台にて宿泊した前夜、頭が冴え渡り眠気が一つもなかったのです。これは岩手県の被災地を回った時にホテルで全く眠気が起きず、一睡も出来なかった時と同じ感覚です。寝なければいけないと思うと余計眠れなくなるので、心を落ち着けたり、精神をきちんとしなければと言い聞かせながら過ごしたのですが、眠気を全く感じなかったのです。高層の建物のホテルでしたので仙台の夜の街を眺めながら涙ばかりが込み上げてきました。この全く眠気が起こらない感覚は霊魂を身に受けている時という事を、岩手県の被災地に行った時に初めて経験したのでした。一睡も出来ないままに、いわきでの「高句麗伝説」本番へ臨んだのでした。「高句麗伝説」を前に眠れなかったのは初めてです。それでも真剣勝負でさせて戴き無事に終わり仙台へ帰りました。疲れているはずが、その日も眠気が一つも起こらなかったのです。またもや眠れぬ夜を過ごし、朝を迎え仙台での「高句麗伝説」コンサートの会場に向かったのでした。とても辛い状態でした。が「高句麗伝説」では真剣に詩を詠ませて戴きました。昨夜いわきから仙台に帰る途中、高速道路から見える夜の闇に、木々の緑を見た時、私には沢山の霊魂が見えました。今まで宮城県や福島県に来れなかった事を心から申し訳ない気持ちになりました。縁がなかったので来れなかったのですが、岩手県にはご縁があり全ての被災地を回りましたが、宮城県と福島県は回る機会がなかったのです。お亡くなりになった方々の生命は大切な生命であり、人間の生命を数で計ることなど、出来るものではありませんが、宮城県はお亡くなりになった方が最も多かった事が心に重くのし掛かっていました。丸2日間眠れぬ夜を過ごし、多くの霊魂が救済を求めていると感じました。私は2日目の夜、いだきしん先生のコンサートを宮城県で開催する事を決めたのです。眠れぬ夜に夜景を見ながら涙ばかりが込み上げ、必ずここでコンサートをすると心に誓ったのでした。そして盛岡の家に戻り、奥州は盛岡から会場に向かったのでした。盛岡の家ではゆっくり休む事が出来ました。私はすぐに宮城県のコンサートホールを探し、空き日を尋ね、一番早くコンサートが出来る日を予約しました。全てはチャリティーコンサートとし開催していました。収益金は被災地に寄付することにしたいと考えました。初めて宮城県でチャリティーコンサートを開催するにあたり、震災後すぐにいちごハウスを立ち上げたニュースを見たことが心にあり、その方を探しました。同じ苗字の方がお二人いらっしゃったのですが、私は心に感じる御方の方にお手紙を書いたのです。その方が山元いちご農園の岩佐代表でありました。丁度、北上にていだきしん先生のコンサートを開催する日に、コンサート前に突然お電話をしようと感じ、岩佐様にお電話をさせて戴いたのです。お電話に出るなり「高麗さん」と私の名前を呼んで下さいました。私は一気に緊張が解け、知り合いにお電話してるような気持ちとなり、とても嬉しくお話しをさせて戴きました。岩佐様は「コンサートに行きますよ」とすぐにおっしゃって下さいました。私はできれば一度お会いさせて戴き、お話をしたいということをお伝えしました。すぐに良いですよとおっしゃって下さり、その場でアポイントメントを取ったのです。今でもあの時の胸に広がる光、爽やかな風が吹いた事を忘れられません。

仙台での講演会を開催する前に私は山元町へ行き、岩佐さんにお会いしたのでした。カーナビゲーションを入れましたが、目的地到着というアナウンスのあった所は畑でした。何もありませんでした。ここからどのように岩佐さんがいらっしゃる場所を探したら良いのかと、途方に暮れましたが、近くに見えたハウスにまず行き、ハウスの中にどなたかがいらしたら尋ねてみようと考え、一軒一軒ハウスを回ったのです。ハウスの中には人はいらっしゃいませんでしたが、いくつ目かのハウスの中にお一人、人がいらっしゃったので、私は山元いちご農園の岩佐さんに会いに来たのですがどこにいらっしゃるかご存知ですか、と尋ねたのです。あそこにいるよと指を差して下さり、そちらの方向に車を走らせ向かいました。車を降り、建物に入ると岩佐様はいらっしゃいました。とても気さくに話して下さり、お考えの計画を私に教えて下さったのです。「ファイブスタープロジェクト」という名前でした。私がやりたいことを全部岩佐さんはお話しされたのです。私がコンサートホールを作りたい気持ちで土地探しをしていた話をすると「ここにコンサートホールを作りましょう」とおっしゃいました。そして世界中から人が訪ねてくるホテルや研修所を作りたいともおっしゃって下さいました。私がいだき講座の事をお話したので、研修所という言葉を使われたのです。私は自分のやりたい事がここでは出来ると、夢を見ている様な気持ちとなり、胸の中は希望で一杯でした。気が早いですので、すぐやりたい気持ちとなり、どんどん話を進めていきたいと考えました。その日は講演会が開催されますので、お暇しなければいけない時間となり、話は盛り上がりながら尽きず名残惜しく、山元いちご農園をお暇しました。そして、日立システムズホール仙台での講演会会場に向かったのです。日立システムズホール仙台の前の森は光輝いていました。丁度、高校生のブラスバンド部の生徒さん達が練習をしていました。青春の香りがし、私も高校生になったような気持ちとなり、人生これからと心がときめいてならなかったのです。会場の前の森はキラキラ輝き、こんなに良い所はないと自分は大喜びしたのでした。講演会会場に着き、いだきしん先生に岩佐様の事をお話しました。私が興奮し過ぎていたので、いだきしん先生は首を傾げ「これ以上人に会いに行くとまた色々始めないといけなくなるから、人には会いに行かない方が良い」とおっしゃったのです。予想外のお言葉に驚き、一瞬何と表現して良いか分からずに固まってしまいました。先生のお言葉は生命に響きます。体の異和する所は生命に負担が掛かっているという事は、私には分かるようになっていましたので、この興奮した状態では何も物事は成していけないと受け容れ、よく考えていこうという気持ちになりました。その後よく考えてもやりたい気持ちばかりが突き上げてならないのでした。次の初めて開催する仙台でのチャリティーコンサートに、岩佐様は来て下さいました。コンサート前に会場のレストランで再び話し合いをしました。「ファイブスタープロジェクト」のお話です。岩佐様は、自分の為であれば、こんなには頑張れない。沢山の借金もしない。次世代の為にやっているとの生き様に共感し、何かお役に立てればと考え、私達のできる事とし、いだきしん先生のサウンドをいちごに聴いてもらうという試みをお話したのです。岩佐さんはすぐに「面白いね」とおっしゃいました。是非やってみたいとおっしゃって下さったのです。そしてコンサートにご参加下さいました。翌日、私は再び岩佐さんの所に行く約束をしていました。いだきしん先生に一緒に行かれますかとお話をさせて戴きました。山元いちご農園にサウンドシステムを設置する事になり、その打ち合わせの為に行くのですが、とお話をすると一緒に行って下さる事になったのです。山元いちご農園に着き、先生をお連れした事を岩佐さんにお話した時、岩佐さんはすぐに先生に深く頭を下げ、昨日はコンサートありがとうございましたと御礼を言って下さったのです。私はほっとしました。このような御方で良かったと胸撫で下ろしました。先生にこの様に挨拶をして下さらない方であれば、何かを一緒にする事は出来ないという事は、はっきり分かっていました。良い始まりの時となり、とても嬉しくなりました。話は進み、まずはサウンドシステムを設置することになりました。続く…