世界伝説 第152弾

 2019年、いだきしん先生のピアノコンサートをウラジオストックで開催した年の11月は、再びウラジオストックに向かいました。ギャラリーをオープンする為です。コンサート開催時にウラジオストックを訪れた時に、ギャラリー の候補地は見てきました。ここに決めるとウラジオストックにいる私達のスタッフに話してきました。無事に契約が進み次に行く時はオープンの為と日本で準備をしました。

税関の申告書をロシアの人から教えて頂きながら準備をしました。行く前日は皆徹夜となり準備したのですが、何とか間に合ったものの私は胸騒ぎがしてなりませんでした。出発の日に成田空港でウラジオストックのスタッフに電話を入れました。電話を入れたからと言って通関が無事に通るとは分からないことでありますが、とても心配で電話をしたのです。全て言われた通りに準備しましたのでこれ以上やりようがない状況でしたけれど、スムーズに行かないことを胸の内では感じていました。ウラジオストックの空港に降り立ちました。予感が的中し、通関の所でストップがかかりました。それから申告書を書き直し5時間もその場にいたのです。私達に通関手続きの指導をしてくれていたウラジオストックの通関業者も来てくれ、共に書類の書き直しをずっとし続けてくれていました。通関業者の指導のままに、言われたままに書いても通らないということの不合理さを感じ、やり切れない気持ちでいっぱいでした。書いても書いても終わらないと感じる程延々と書き続けてくださっていても通関を通ることができない苛立ちを抑えることで精一杯でした。もうこれ以上待つことは嫌だと限界にある時、やっと全ての書類が揃い外に出ることができたのです。皆くたびれ果てていました。外ではロシアの知人が待っていてくれました。長い時間待っていてくださったことに頭が下がります。

彼は言っていました「高麗さん達が来た時にはもう税関の職員が無線で連絡を取っていた」と話しました。最初から私達をマークし全ての書類を書き直すことは決まっていたのだと分かりました。であれば、日本で何日も皆で徹夜して準備したことが何だったのかと、またやり切れない気持ちになったのでした。そして書類は提出したもののスーツケースは没収されました。どのくらい没収されるか分からないということでした。結局スーツケースの中にギャラリーオープンの為の商品が入っていましたので、ギャラリーはオープンできないことになったのです。それでもウラジオストックまで来ましたので、プレオープンだけでもすることに決めました。手荷物のスーツケースの中にカーテンやタペストリーや、いくつかの作品や商品は、皆で分散し詰めて来たのです。翌日からプレオープンの為の準備が始まりました。ギャラリーがあるビルに入っていくと、入り口の警備員が私のことを知っていました。私はロシア語は全く通じないのですが、私がそのビルを案内し、日本から一緒に来てくれたスタッフをギャラリーまでお連れしたのです。言葉も通じないのに知っているかのように歩き、道案内をしている自分がおかしくなりました。ギャラリーの鍵を開け、中に入り、皆でお掃除をし必要なものを買いに行き、準備は進みました。途中、通関業者の会社に出向きこの度の説明を受けました。有限会社高麗はロシアの税関に目を付けられたとはっきりと言われました。これから大変厳しく調査されると言われました。そしてスーツケースは年内には戻って来ないということを知りました。この時点でオープンは諦めていましたので覚悟はしていましたが、何ともやり切れない結果となり、不本意な気持ちは中々整理がつかなかったのです。それでもプレオープンは無事にできました。

色々な方がお越し下さいました。いだきしん先生はコーヒーをずっと淹れ続けてくださり、皆様に振る舞いました。私はギャラリーのウィンドウにお尋ね人のチラシを貼るように、同胞探しのチラシを貼り出しました。この場にこの同胞探しのチラシさえ掲げられたら、私は一つのやりたいことを成した気持ちだったのです。自分がいない時も、このチラシを見て同胞が飛び込んできてくれたら良いと、祈るような気持ちで貼り出しました。本当のオープンの為にもう一度近々ここに来なければいけなくなりました。唯一日程が空いていたのは1月16日です。この日はえりかちゃんの誕生日です。いつもこの日は空けてありましたので、この日より空いている日はなかったので、この日を挟んだ前後の日程でウラジオストックに来ることを決め、本オープンは2020年の1月16日と決め、ウラジオストックを後にしました。この時のウラジオストックの滞在は冬でもあり、外は灰色で重い空気が立ち込めていましたので、外の風景を見るだけでも心が曇ってくるのでした。そしてギャラリーのあるビルまでは歩いて行くのですが、肌が切れるほど寒い中、息も苦しくなりながら、凍った道路の上を転ばないようにと気をつけながら歩いて行く道中も、この地で仕事をすることの厳しさを感じていました。決めてしまったことですので、やるよりないと考えましたが、本当はすぐにでも止めてしまいたい気持ちが強くなっていたのです。何をするにも政府の様々な規則が引っかかってきますので、外国人がロシアで仕事をすることは不可能ではないかと感じる気持ちが強くなっていました。この度はロシア人の会社を通しギャラリーをオープンすることができましたが、仕事になるような動き方はできない状況でした。仕事とし成立することはないということは、仕事をするにつれ分かっていくのでした。気は重くなるばかりでした。それでも日本から仲間が一緒に来てくれ、皆で美しい空間を作ろうと働く瞬間瞬間は楽しく幸せでした。何よりいだきしん先生がずっと共にいてくださいますので、どこにいても、どのようなことがあっても内面は豊かで楽しく幸せです。いだきしん先生からは、俺だったらやらないとは、はっきりとおっしゃって頂いていました。自分もその意味が現場に行って、より身に沁み分かる状態となっていったのでした。いつもやってから身に沁み分かる自分自身のあり方を考えました。本当は行う前に分かっていけば良いことだったのです。ウラジオストックまで来て、やってから分かるという自分の癖が出てしまったことをとても悔やみました。暗い町を歩きながら、希望はないのかと心の中を辿っていくのですが、ここから活路を見出すことは厳しいということを分かるよりなくなっていくのでした。それでも来年1月16日にはオープンの為に再びここに来ることは決まっています。何とか日本で持ち直し、新たな活路を見出したい気持ちで、この時もウラジオストックを後にしたのでした。続く。。。