世界伝説 第146弾

2013年9月に2020年東京オリンピック開催が決定したというニュースを聞いた瞬間、日本は終わってしまうと見えた事が辛くてならなくなりました。東北から京都、奈良と「高句麗伝説」を続けて開催しました。最後の奈良の「高句麗伝説」が終わった後、無事に全て終えた事に安堵し外に出た時、とても不気味な月を見たのです。私は滅びと見えたのです。その光景と2020年東京オリンピック開催が決定したニュースとが私には重なってしまい、それから日本が危ういと感じ始めたのでした。東京に帰り東京の空気も空も黒くなっていました。人間の生きている状態が空間のエネルギーとなっていますので、東京には悪い人が沢山集まっていると私は感じていたのです。日本が滅んでしまうと見える事はとても辛く、とてもじっとしていられるものではありません。何とかしなければと毎日必死で考えるのでした。どう考えても人間が人間であること、魂あれば滅ぶ事はないと行きつくのです。海外にてお会いする方にいつも言われてきたことは「魂、精神なくす時国は滅ぶ事は歴史が語っている事である。日本人は精神、魂を失い亡国の危機にある。」とのことです。海外の方から見たら、日本人は魂も精神も無いのだということが分かり、とても恥ずかしく、悲しく感じました。日本で活動している時もいつも感じていました。どうしてこんなに目に見えるものばかりに囚われ、その囚われ方こそが宗教的だと感じていたのです。何かに取り憑かれたように一つの方向に持っていかれる事がとても恐ろしく感じていました。日本人の魂を取り戻していく事が日本の国を守る事と答えを見出し、憂えるよりも行動におこす事で解決に向かいたいと心を決めたのです。そんなある日、東北センターでのいだきしん先生の講座の中で、いだきしん先生がお話下さった事に私は希望を見出しました。東京オリンピックの開会式の日に東北でパイプオルガンを演奏したらいいという内容のお話だったのです。そのパイプオルガンはコンサートホールというよりも自分達で作ったホールにパイプオルガンを置くと私は受け止めたのでした。その後、盛岡の土地探しが始まりました。パイプオルガンを置くコンサートホールを作ると必死で土地探しが始まったのです。何件か見にも行きましたが、コンサートホールとなれば商業施設ですので、今まで造ってきた様な建物ではないという事はすぐに明らかとなりました。パイプオルガンを作って頂くにしても2020年までに作らなければいけないと考え、パイプオルガンはどの位で作られていくのかという事も調査し、それに間に合わせるようにして土地を買い、建物を建てなければいけないと考え始めると、とても気が急いていくのでした。盛岡のコンサートホールにあるパイプオルガンを作った方が日本にいらっしゃるということを知りました。その方にお電話をさせて戴き、早速お会いする事になりました。フランス人の方でした。その方に内容をお話し、どの位で作って頂けるのかお聞きしてみました。まずはその方が作ったパイプオルガンが置いてある場所を見に行って参考にして欲しいとおっしゃいましたので、私は神戸にある学校のパイプオルガンが置いてあるチャペルを見に行く事にしました。チャペルの大きさがどの位かという事も見てみたいと考えました。その学校へ行きましたけれども、とても大きな敷地が必要であり、建物も高く広い建物が必要と確認しました。こんなに大きな建物を建てる土地を探すのは大変でした。調査すればする程、現実的には大変厳しい事に向かっていると気づき始めたのです。そんな時にふと音響担当の方がピアノを置くホールだったら簡単だけど、とおっしゃったのです。その瞬間、ピアノを置くホールがいいと私は感じました。パイプオルガンは管理も大変であり、ずっと存続する事は管理費もかなりかかる事を知りました。ピアノであれば簡単というその言葉に私は光を見たのです。その後はピアノを置ける建物を造る土地探しが始まりました。福島に行ったり、岩手県を探したり、工房を作った比叡山を探したり、京都の観光地であるお寺の近くを探したり、また岩手県平泉にあります中尊寺の敷地内にある売りに出された大きな建物を買う事を考えたりと様々な土地を見ながら検討しました。中々実現出来る土地に巡り合う事は出来ませんでした。最後は工房を作った比叡山に土地を探す事に焦点が絞られました。

ある時、奈良にて私の作品展を開催した時、いだきしん先生は奈良の土地にある歴史の重荷や闇を身に受けとても体がしんどいとおっしゃいました。奈良では、何回かコンサートもしてきましたが、これ程奈良の土地が動いたのは今日が初めてとおっしゃりとてもしんどそうでありましたが、今まで動かなかったものが動き、何かが始まっていく兆しを感じました。そのまま京都へ帰る道中、私が候補に考えていた比叡山の土地をいだきしん先生に見て頂きたく、比叡山経由で京都へ帰ったのでした。その土地の前に立った時に一陣の風が吹いたのです。私はここに迎賓館を作りたいと心は決まったのです。その後見た夜景には驚きました。私は中学の修学旅行で奈良を訪れた時に突然、田んぼの畦道で胸動き、号泣し、立ちすくんで泣いていたのです。何でこんな事が起こるのか理解出来ず、大変戸惑いました。そして、京都東山にても愛し香りに包まれ、涙したのです。そして琵琶湖へ行き、比叡山延暦寺根本中堂へと行った事をよく覚えています。比叡山からの帰路、京都の街の夜景が見える所に立った事をずっと覚えているのです。その時見た夜景が胸の内に刻まれているのです。よくボランティアの方に話していた事ですが、私の胸の内をもし写真で撮れるなら皆に私の胸の内に刻まれているこの夜景を見てもらいたいと話したものでした。京都に八坂高麗ギャラリーカフェを作ってから、私は何度か比叡山から見た夜景はどこから見たのかと探し始めたのでした。ある人は将軍塚からではないかと言いました。私は将軍塚へ行きましたがそこではないとすぐに分かりました。何度も比叡山の色々な場所から夜景を見ましたが、ここではないとすぐに分かるのでした。この時初めて胸に焼きついた夜景と同じ光景を見たのです。ここだと分かり信じられない程不思議な気持ちとなり、同時に喜びがほとばしりました。自分の人生の不思議な事を考えたのです。中学の修学旅行で初めて来た場所なのに懐かしいと感じるのは魂の働きであったという事をいだきしん先生にお会いした時にお聞きし合点がいきました。京都東山で心ときめく愛し香りに出会ったのも魂の働きであったと分かりました。そして、比叡山に工房を作ったのも魂の働きであったとこの時分かったのです。国創りはここですると心が決まったのです。その後、色々な方が土地を紹介して下さいましたが、私は比叡山と決めていたので、あまりご迷惑をかけないうちに最初にお断りをさせて戴いたのでした。ところが、比叡山と決めたもののピアノを置ける建物を造れる土地を買おうとしても中々進まないのでした。不動産は縁物とはよく分かっています。オーナーさんとの連絡が取れなかったり、約束の日に返事が来なかったり、どの土地も全部進まない話となってしまったのです。結局最後は私がヤフー不動産でインターネットで探した土地が順調に購入へと至ったのでした。その土地は、狭く小さな建物しか建てられないと少し気にはなりましたが土地は縁物です。他の土地は一切決まらないので、決まる土地を買うよりないと至ったのでした。何より一陣の風が吹き、ここで国創りをすると決めた土地は高圧線の鉄塔が立っていたのです。いだきしん先生は、世界平和の為のコンサートを開催する場所にこの高圧線の鉄塔が立っていたら神経を疑われるとおっしゃり、ただでもらってもここで作る訳にはいかないとおっしゃったのです。当然の事と受け止め、大変がっかりしたのですが断念したのでした。その土地であれば一番端にあって琵琶湖を見下ろせる土地だったのです。とても広く、何でも出来る場所と感じていましたが、一番狭い土地にかわってしまったのです。が、現実的に考えると広大な土地を購入しても大変な労力がかかり、お金もかかります。そのお金を返す為に働くのもしんどくなるとは目に見えていました。狭い土地で丁度良かったのかもしれないという気持ちになったのでした。そして、私が気が急いた理由は、私は既にいだきしん先生専用のピアノをイタリアまで行き、ピアノを作っている方にお会いし作って頂いていたのです。ピアノは既に完成しずっと保管して頂いていたのです。早くピアノを置く館を造らねばと必死で土地探しをしていたのです。続く…。