私が岩手県で土地探しをしたのは漬物工場を作る為です。以前からいだきしん先生より農作物は市場に出す基準から外れたものは捨てるよりないというお話をお聞きし、その捨てるものを譲って頂き、美味しい食事を作って一人暮らしの老人にお配りする様な事が出来ればいいと考えていました。それは、東京で一人暮らしの老人が「おにぎりが食べたい」と言って亡くなった事をニュースで知った時にお聞きしたのです。食べ物がなくて死ぬような社会は人間が生きる社会ではないと、いだきしん先生がおっしゃったお言葉が心に飛び込み衝撃を受けたのです。真にそうであると本当に悲しく感じました。そして、その時に捨てる様なお野菜や魚であっても味には変わりはないので、生産者の方とつながり、譲って頂き、美味しいものを作って一人暮らしの老人に配る事が出来たらいいと先生と話しながら考え始めたのでした。市場の規格に合わない事で、食べられる物なのに、捨てるよりない事は、勿体ないと考えます。農産物も無駄にならず、生産者も少しでも利益が生まれ、譲って頂く私達も市場で購入するより安く譲っていただけるなら、全てが生きていくと考え、やってみたかったのです。そして、私はすぐに自分の経営する会社の一つの事業とし食の事業を立ち上げようとしたのでした。調理器具を購入し準備はしたものの厨房となる物件が中々見つけられなかったのです。ある日、いよいよ居抜きの厨房を契約しようと妥協はしたものの、ここで決めていかずしてはずっと作れないという気持ちで契約の日を迎えたのです。ところが契約段階に入り、明らかに今まで話してきた事と契約内容が違っていたのです。その事を指摘すると、不動産屋さんが誤魔化す事を言い始めたのです。その場でこれでこの話はやめると激怒し、立ち去ったのでした。そして、厨房はまた作れずにその後も作れずに、また残念な事に作る人も中々決まらずに話は成立しなかったのです。が、ずっと心にあり続けますので、東北に行く様になり生産者の方にお会い出来ればいいと考えはじめました。
ある日、京都八坂の塔の真下に作りました「高麗ギャラリーカフェ」で私はピクルス作りを始めました。冬の寒い朝、まだ暗いうちに私は京都の市場に買い出しに行きました。軽自動車に購入した野菜を沢山積んできました。市場では私には珍しいものばかりで楽しくてなりませんでした。八坂に着いた時も大喜びで野菜をおろし、野菜を切りはじめました。そして、ピクルスのエキスを調合し始めたのです。皆で野菜を切ったり、茹でたり、ピクルスを詰める瓶を消毒したり、大変時間がかかる作業でしたが、楽しくてならなかったのです。捨てる様な野菜で漬物を作る事が出来ればいいと考えたのでした。それを東北の復興の事業に出来ればという考えがあり土地探しをしていたのでした。
好摩の土地はとても美しく私はこの土地を契約しようとしました。いだきしん先生にも見に行って頂き承諾を得たのです。その時に駒形神社にも、いだきしん先生に行って頂いたのでした。この地で生命絶えずっと埋もれていた先祖の魂は、いだきしん先生がこの地に訪れて下さりどれだけ嬉しかった事でしょう。涙となって伝わってきました。いよいよ好摩の土地の契約に進む段階で、やはり難があり契約は成立しなかったのです。不動産は縁ものといつも感じています。難がある時は契約してはいけないのだといつも考えてきましたので、この時も残念ですがやめる事にしたのでした。元々漬物工場を作るという事も私にはその段階では出来なかったのかもしれません。けれど、岩手県の土地を見に行っては考え続けたのでした。
ある日は、紫波の土地にも行きました。時間がありませんので、東北センターでの催しが終わった後、夜中に仲間達と見に行ったのです。星があまりに美しく、夜空を眺め見入ってしまいました。こんな所に工場を作れたらいいと感じました。そして、ここにしようと再び契約をする話を進めたのです。契約をする前にいだきしん先生にも見に行って頂きました。いだきしん先生も承諾下さいまして、ここで決めようとした時です。残念でしたが、水道を引けないという現実にぶつかりました。またもや駄目になったとがっかりもしました。