世界伝説 第133弾

 私が岩手県で土地探しをしたのは漬物工場を作る為です。以前からいだきしん先生より農作物は市場に出す基準から外れたものは捨てるよりないというお話をお聞きし、その捨てるものを譲って頂き、美味しい食事を作って一人暮らしの老人にお配りする様な事が出来ればいいと考えていました。それは、東京で一人暮らしの老人が「おにぎりが食べたい」と言って亡くなった事をニュースで知った時にお聞きしたのです。食べ物がなくて死ぬような社会は人間が生きる社会ではないと、いだきしん先生がおっしゃったお言葉が心に飛び込み衝撃を受けたのです。真にそうであると本当に悲しく感じました。そして、その時に捨てる様なお野菜や魚であっても味には変わりはないので、生産者の方とつながり、譲って頂き、美味しいものを作って一人暮らしの老人に配る事が出来たらいいと先生と話しながら考え始めたのでした。市場の規格に合わない事で、食べられる物なのに、捨てるよりない事は、勿体ないと考えます。農産物も無駄にならず、生産者も少しでも利益が生まれ、譲って頂く私達も市場で購入するより安く譲っていただけるなら、全てが生きていくと考え、やってみたかったのです。そして、私はすぐに自分の経営する会社の一つの事業とし食の事業を立ち上げようとしたのでした。調理器具を購入し準備はしたものの厨房となる物件が中々見つけられなかったのです。ある日、いよいよ居抜きの厨房を契約しようと妥協はしたものの、ここで決めていかずしてはずっと作れないという気持ちで契約の日を迎えたのです。ところが契約段階に入り、明らかに今まで話してきた事と契約内容が違っていたのです。その事を指摘すると、不動産屋さんが誤魔化す事を言い始めたのです。その場でこれでこの話はやめると激怒し、立ち去ったのでした。そして、厨房はまた作れずにその後も作れずに、また残念な事に作る人も中々決まらずに話は成立しなかったのです。が、ずっと心にあり続けますので、東北に行く様になり生産者の方にお会い出来ればいいと考えはじめました。

 ある日、京都八坂の塔の真下に作りました「高麗ギャラリーカフェ」で私はピクルス作りを始めました。冬の寒い朝、まだ暗いうちに私は京都の市場に買い出しに行きました。軽自動車に購入した野菜を沢山積んできました。市場では私には珍しいものばかりで楽しくてなりませんでした。八坂に着いた時も大喜びで野菜をおろし、野菜を切りはじめました。そして、ピクルスのエキスを調合し始めたのです。皆で野菜を切ったり、茹でたり、ピクルスを詰める瓶を消毒したり、大変時間がかかる作業でしたが、楽しくてならなかったのです。捨てる様な野菜で漬物を作る事が出来ればいいと考えたのでした。それを東北の復興の事業に出来ればという考えがあり土地探しをしていたのでした。

 好摩の土地はとても美しく私はこの土地を契約しようとしました。いだきしん先生にも見に行って頂き承諾を得たのです。その時に駒形神社にも、いだきしん先生に行って頂いたのでした。この地で生命絶えずっと埋もれていた先祖の魂は、いだきしん先生がこの地に訪れて下さりどれだけ嬉しかった事でしょう。涙となって伝わってきました。いよいよ好摩の土地の契約に進む段階で、やはり難があり契約は成立しなかったのです。不動産は縁ものといつも感じています。難がある時は契約してはいけないのだといつも考えてきましたので、この時も残念ですがやめる事にしたのでした。元々漬物工場を作るという事も私にはその段階では出来なかったのかもしれません。けれど、岩手県の土地を見に行っては考え続けたのでした。

 ある日は、紫波の土地にも行きました。時間がありませんので、東北センターでの催しが終わった後、夜中に仲間達と見に行ったのです。星があまりに美しく、夜空を眺め見入ってしまいました。こんな所に工場を作れたらいいと感じました。そして、ここにしようと再び契約をする話を進めたのです。契約をする前にいだきしん先生にも見に行って頂きました。いだきしん先生も承諾下さいまして、ここで決めようとした時です。残念でしたが、水道を引けないという現実にぶつかりました。またもや駄目になったとがっかりもしました。

 ある時は冬の寒い時に雪原を車で走りながら渋民村まで行ったのです。白い雪に覆われていますので、既に道は見えない道を走って行ったのです。石川啄木の生まれた地と聞きました。その一軒家は漬物工場にするにはいいかもしれないと感じる一軒家でした。が、具体的にここでと考えるとやはり難を感じたのです。岩手県には、いい所が沢山ありました。土地を感じる時、ここでならやっていきたいと感じる土地が沢山ありました。が、現実に進む事を考えると厳しい事に気づき、話は成立する事はなかったのでした。が、やる事があり探すものがありこの様に岩手県を歩く事は私にはとても楽しい経験となりました。歩く中で歴史を知るのです。そして、高麗の縁がある所に行けば、魂が覚醒するのです。次はどこへ導かれるのかと次第に感じる様になりました。あまりに話が成立しないのでやろうとしている事が間違いであると考え始め、常に本音を問い、現実的にこの事をして何になるのかという事を考え続ける日々が続きました。いだきしん先生は東北センターでの「東北と日本の未来を考える-語る会」にてお話下さった事があります。私は復興の道を作りたくて本当に必死でした。そして中々道が作れずに苦しみました。そんな時に語り合える人がいたら、きっと色々なアイデアが浮かぶと感じ「東北と日本の未来を考える-語る会」を開催する様になったのです。そんな時にいだきしん先生は、半径20km以内で人が住み、人が役立つ仕事を作っていけば既に村になるとおっしゃったのです。私も東北に家と拠点を作りましたが、震災直後から一緒に私が行くならせめて近くの盛岡までは一緒についていきたいというお気持ちのボランティアの方が盛岡に家を借り始めたのです。半径20km以内ですので一人一人が自分のやりたい事をし、その事が人の役に立ち、社会の役に立って仕事になっていく事でいい村を作っていけると考えるだけで、私は楽しくて心が浮き立つのでした。自分がやりたい事をし、生き、その事が社会に役立つ事は何とありがたい事かと考えるのです。丁度、私が盛岡に家を作る事になった時に、思わず口走った言葉が「ここでなら詩を書ける」という言葉です。私は詩を書いて生きていけるならば幸せな人生です。世界の平和を実現したく生きています。ある日、ある方から「世界が平和になったら高麗さんは何をしたいのですか」と尋ねられました。私は「詩を書いていたい」と答えました。幼い頃からずっと木や花、風の声を詩に書いてきました。詩に書いてきたので生きてこれたのです。盛岡の地に導かれ、美しい山河、清らかな風、どこまでも透明で澄んだ空気、空の向こうに更に無限な世界があると感じる空を見ていると詩が生まれてくるのです。詩を書いて生きていけたら幸せと感じる私が私です。そして、私の詩が大好きで詩集を作りたいという気持ちの仲間もいます。そして、製本が出来る技術をもっている仲間もいます。皆がやりたい事をして仕事になっていったら幸せだねと語り合いながら、東北で皆が家を借りて住み始めたのでした。盛岡に古い家を借りた仲間の家でマーブリングをする時もとても楽しかったです。皆で工夫をしながらいかに早く水を溜めるかという事を考えて下さり、必死で皆でマーブリングをしたのです。吹く風は国創りの風です。北の大地で心地良い風に吹かれ、皆で力を合わせ楽しくマーブリングが出来る事の喜びは、生命を駆け巡りました。そして生まれ出た模様も色も東北ならでは生まれる色や模様でした。空気や風、水が違えば、写し出されるマーブリング模様はまるで違うものになります。楽しくてたまらないマーブリング制作でした。

ある時は、紙を漉きました。そして川べりを歩き、野の花を摘んで押し花を作りました。紙を漉いた上に押し花をのせ、皆で詩集を作ったのです。楽しいひと時でした。東北復興支援の道を探しながら自分達がやりたい事をし始め、何とか復興の道を作れたらという一心で東北での活動は続きました。続く…