世界伝説 第130弾

盛岡を拠点とし、復興支援の道を作りたく四六時中考えて人を探し、色々な情報を得る事はやめる事は出来ません。自分達で道を作るという方向は決まりましたが、常に人探しは必要な事と考えています。ある時、盛岡、被災地でのアポイントメントが終わり東京へ帰ろうとしていた時、東京にいるいだきしん先生の息子さんの克哲さんから電話がかかってきました。高麗さんが探していた山田町のお坊さんは北上にもお寺があるようですよと教えてくれたのです。電話番号が分かるか尋ねるとすぐに調べて下さり教えてくれました。私はすぐにその電話番号に電話をしました。男の人が出てこられました。住職さんでした。自分の名前を名乗り、先日山田町のそのお寺に伺って名刺とお手紙を置いてきた者ですとお話しました。先方の方は私の手紙も名刺も見ていない様でした。山田町には戻っていないとおっしゃっておられました。私は、お会いしたくて山田町に行きましたので、北上にいらっしゃるなら、今からお伺いしてもよろしいですか、と尋ねました。いいですよとすぐにお返事が返ってきました。道順をおおよそ聞いて、まずは北上インターチェンジで降りる事を目指し盛岡を発ちました。北上インターチェンジを降りて教えて頂いた道順に車を走らせても中々お寺らしきものは見えませんでした。再びお電話をし、道を聞きました。川の名前をおっしゃって下さったのですが、土地の事が分からない私は、その川がどの川か分からなかったのです。そして、田んぼの中の一軒家だという表現を頼りに田んぼのあぜ道を走り続けました。教えて頂いた辺りに確かに近辺に御家があったのです。あそこに違いないと安堵しつつもそうであってほしいと祈りつつ向かい、車を止め、車を降り、玄関まで行きました。そして、ごめん下さいと声をかけさせて戴くと、お電話に出られたお坊さんが出て来られたのです。お寺というよりも一軒家であったのです。すぐに中に通して下さり、私はNPO高麗の活動を話し、いだきしん先生の事をお話させて戴きました。大変興味をもって下さいました。震災の時に沢山の方々を受け入れられていた事はニュースで知っていました。お寺の上から津波が襲ってくる動画を撮られ、それがテレビの映像に映っていたのでした。この様な時は人間の業がそのまま現われるものだとおっしゃっておられました。大変な思いをされ、沢山の方のお世話をなさり、かなりお体も大変な状態なのではないかと感じられました。先生のコンサートにご参加頂ければきっと楽になると感じ、私は先生のコンサートを一生懸命お話し、お誘いさせて戴いたのでした。人の為や世の中の為に尽くしておられる住職さんと感じお会いしたいと感じここまで来たのでした。そして、高句麗の事もとてもよくご存じで関心をお持ちでした。「自分は安倍一族の供養をしている」とおっしゃったのです。安倍一族は、高句麗に関係する事もよくご存知でした。私は、自分の先祖高句麗はいだきしん先生によって魂は解放され蘇っているとお話させて戴きました。そして、私の生命は助かり今生きているとお話をさせて戴きました。大変驚き、興味を持たれました。今年は安倍の前9年千年忌の供養をするので、その時にいだきしん先生に供養の演奏をして頂けないかとのお話があったのです。私はすぐにそれは無理ではないかとお話しました。いだきしん先生の演奏はお経に合わせたりするものではなく、人と自然の生命、その土地全てひとつになり生まれる音を即興演奏なさいますので、お経に合わす事はできないでしょうと答えたのです。やれたらいいのだけれどもとおっしゃって話は終わりました。様々な過去の経験のお話からお聞き致しました。正直私には分からない世界でした。私も霊魂が見える人間なのでこの様な事によって霊魂が浮かばれる事も成仏する事もないと自分では見えていたのです。お経を読んで霊魂が成仏するとは自分にはとてもみえなかったのでした。いだきしん先生のコンサートや「高句麗伝説」にお越し頂きたいとお話ししました。日程が合えばお越し下さるとおっしゃいました。またお会いしましょうとお約束をし、お暇させて戴きました。私はコンサートにお越し頂ければいいと願っていました。この事をいだきしん先生にお話をさせて戴いた時に、いだきしん先生はその法要に行ってもいいとおっしゃったのです。私は失礼ながら、行かない方がいいですと申し上げてしまったのです。いだきしん先生は、行くのもいいかもしれないとおっしゃったのです。そして、話を進める様にとおっしゃいました。正直私はとても嫌な感じがしていました。が、いだきしん先生がそうおっしゃるので話を進める為に連絡を取らせて戴きました。

ある時、再びいだきしん先生と一緒にそのお寺に伺ったのです。息子さんも僧侶でありました。御二人でお経をずっと読み始めたのです。その時、私はなぜか2度も携帯電話を落としてしまい、音を出してしまったのです。普段、いだきしん先生のコンサートで音が出る事が一番演奏の邪魔になる事を分かっているので、音が出ない様にと気を配り、お客様にも音を出してほしくないと祈る様にし、いつも場内整備をしているのです。主催者側がきちんとしていれば、場はざわつかないので演奏の妨げにはならないからといつもスタッフにもよく言いながらコンサートを開催してきたのです。その私が2度もお経を読んでいる所を邪魔してしまいまして、息子さんには睨まれました。何という事を自分はしてしまうのかと驚くばかりで、自分でも戸惑うばかりだったのです。

ある時は、矢巾のある場所に来るようにとおっしゃって頂き伺いました。矢巾の地に立った時にふと見上げた空がとても広くて、空の向こうに世界がある事を感じる空でした。この空を高校の修学旅行の時に花巻温泉で見たのです。生きる事が辛く、生きていけない苦しみにいつも悩んでいました。高校の修学旅行で東北に行く事を希望し、生まれて初めて寝台列車で青森駅に到着しました。駅に着いた瞬間、悲しくて涙があふれました。ホームにある水道の錆びた蛇口から水がぽたりぽたりと落ちる光景を見るだけで胸震え、涙が込み上げるのでした。私は、十和田湖コースを選び、一日中十和田湖の畔で過ごしたのです。十和田神社に行った時に巫女さんがいたので、自分は生きている事が苦しくて、死にたいと話したのです。巫女さんは死ぬ事を考える前にここに行ってきたら良いとおっしゃり、ある場所を教えてくださいました。鉄の梯子を降りて、湖の畔に降りると聞いていました。言われたままに歩いていくと、そこは足を滑らせたら湖に落ちてしまう様な鉄のはしごが架かっていました。その鉄のはしごを、足が滑ったら死んでしまうと感じただけで足がガタガタと震え全身恐怖を感じたのです。私は死にたいと言っていたにもかかわらず、死ぬことは怖くてできないとはっきり分かりました。私は死にたいのではなく、生きたいのだとはっきり確認したのです。この事を巫女さんは教える為に私にここに来るようにと教えて下さったのだと分かり、御礼を申し上げたく再び巫女さんの所に戻りました。どんなに探しても見つかりませんでした。周りのお店の人に聞いたら、ここには巫女さんはいないとおっしゃいました。先ほどいましたが、と言ってもここは、いつも誰もいないとおっしゃるばかりです。私は誰に会ったのだろうか、この世にいる人ではなかったのだろうかと、とても不思議な気持ちになりました。私は生命を助けてくれる存在を感じました。だから、どんなに辛くても生きなければいけないと心に決めたのです。そして、花巻温泉に泊まった日の夜、キャンプファイアーをやっていた時、空の向こうに世界があると見えたのです。空の向こうの世界を分かれば、私は生きていけると胸の内に光を見たのです。その空と同じ空を矢巾で見ました。その時、宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」を想いました。後から、その地は宮沢賢治さんが「銀河鉄道の夜」を書いた地だと知り合点がいったのです。この地のエネルギーを受け、空の彼方を見、宮沢賢治さんは小説を書かれていたのだと分かり合点がいったのです。矢巾に来れた事はとてもありがたい事でした。が、そのよばれた会合は、私にはとても苦しいものでした。お会いした方には、いだきしん先生のコンサートをお伝えさせて戴きましたが、中々通っていく感じのない空気の会合でした。それでも後日、そこでお会いした方がコンサートにお越し下さいましたので、とてもありがたい事と感じています。どこに行っても自分の生きる姿勢を表し、きちんとお伝えする事をいつも徹しています。徹する事が一番伝わるという事がいつもよく分かります。

その後、コンサートの詰めの話になると大変困難な事が続きました。こちらの話は中々受け容れて頂けず、お寺側の方のしきたりや決まり事が沢山ある様で話が全く進まない状況でした。いつも、いだき講座を受講された方々と打ち合わせをしたり、お話する事に慣れてしまっていたので、いだき講座を受講されていない方はこんなに話が通じないものか、物事が進まないものかと久しぶりにこの動き方を経験し、疲れました。そんなある日、また再び被災地に行った帰りに突然体が苦しくなり、立っても座ってもいれなくなったのです。いだきしん先生にお電話をさせて戴き、スタジオからピアノをずっと弾いて頂きました。どんなに聴いても苦しみがとれず、具合が悪いばかりでした。いだきしん先生は無数の浮かばれない東北の地に眠る霊魂が動き始めたとおっしゃいました。私にも見えました。ぞろぞろという言葉を使っては申し訳ない事ですが、目に見えない世界でいえば、黒いものがぞろぞろぞろぞろ地面から出てきて私の身を襲う様に入ってくる感じだったのです。無数な霊魂と感じ、解放されてはまた数珠つなぎに出てくる状態で、私は長者原から東京に着くまでずっといだきしん先生のピアノを聴かせて頂きながら帰路についたのです。幸い運転してくれる人がいたので、車の中で寝ながら先生のピアノを聴き東京まで帰ってこれたのでした。これが真の供養と感じました。東北の地の浮かばれない霊魂はこれで供養されたと自分では体で分かりました。なので安倍一族の法要はもう演奏に行く意味がないのではないかと、いだきしん先生に申し上げてしまったのです。いだきしん先生は、笑いながらもうきれいになってしまったからとおっしゃいました。だけど約束したから行ってみようとおっしゃり、予定通り行く事となったのです。自分の中ではもう終わってしまったのにどの様なお経をあげるのだろうかという疑問を感じながら、予定通り供養に行ったのです。私からすると大変いだきしん先生に失礼な事をされたと感じています。演奏の音が大きいと注意され、最後はしないでほしいとまで言われたのです。話がまるで違うと私はとても憤りを感じましたが、既に始まっている最中に話が違うと言う事は叶わず、先生に申し訳ない気持ちで一杯で最後までいたのでした。上の僧侶の方には話が通っていないのではないかと感じました。その様な所になぜいだきしん先生をよばれるのかと私は不本意な気持ちでその事は申し上げたのです。私には分からない関係や事情があるという事だけは感じましたが、私にはこの様な事は理解し難い事でした。後日お礼の写真やお菓子が送られてきましたので、それ以上もう関わる事は意味がないと考え、話が違った事について、話しをつける事は止め、心に収めました。一つずつ実行しては潰れていきます。この度もまたこの様な結果となってしまったのでした。続く…。