次は釜石でのコンサートの日がやってきました。コンサートが近づいたある日、釜石の事がニュースになっていました。嫌な予感がしました。市長さんや有能行政マンの方にはコンサートにご参加頂きたいと心から望んでいました。嫌な予感の通りになってしまいました。ニュースに出ていた事により、とても時間が取れずにコンサートはお二人共ご参加頂けないという事を知りました。大変がっかりしました。しばらく胸が暗くなり、ショックを受けていました。が、全て受け止め向かうよりありません。コンサート会場では、いだきしん先生がコーヒーを淹れて下さり、皆様にお出ししていました。一つ一つ一生懸命行なっていく事の連続の中で、大いなる働きかけが注がれ、必ず道は作られるというこの道を行くよりありません。釜石のコンサートでも、いだきしん先生は山田町の時と同様にお話し下さり、そして演奏して下さいました。
私は、コーヒーをお出ししている時にお話しした方々に、コンサートの後は朝の目覚めが違いますとお話ししていました。言うに言われぬ重荷や苦しみ、悲しみが解き放たれ、生命の働きが取り戻されていくのです。これ程の経験はないという事を私は沢山の方々に知って頂きたいと心から願いました。鈴子広場という広場でコンサートを開催しました。無事に開催出来ました事は心からありがたい事と感謝します。が、コンサートに市長さんも有能行政マンの方もご参加頂けない巡りとなりました事により、釜石での復興カフェの話し合いの機会がなくなりましたので、残念ながらお会いした日にお話しした事は進められなくなってしまいました。状況がどんどん変わる被災地でありますので止む無い事と考えます。また、ご縁がなかったのかと考えます。私はいだきしん先生が関与し、真の復興が成される事を願い被災地の行政長にお会いして参りました。中々ご縁がないという現実を受け止めるよりなくなりました。次は自分達で道を作っていくのだと受け止めました。釜石でのコンサートが終わった後は自分達で道を作ると決め、岩手県の被災地は全て回らせて戴きましたので、一応一区切りとさせて戴き、次は盛岡に作る予定で購入しましたNPO高麗の拠点作りをし始めました。釜石でのコンサートを経験した方からお電話を頂いた時はとても嬉しかったです。おっしゃる通り次の日、朝の目覚めが違いましたと喜びのお電話を頂いたのです。一人でも多くの方が苦しみから解放されお元気になられる事が真に生命の喜びです。いだきしん先生のコンサートを開催しながら復興の道を作っていこうと気持ちを新たにし、仕切り直しました。そして東北センターオープンに向け準備をし始めました。盛岡の材木店に行き、看板の木を買いに行きました。その木にいだきしん先生に高麗の看板を書いて頂いたのです。今までもスカイロケットセンターの看板から、八坂の高麗ギャラリーカフェと書いて頂きました。今度は東北の地に立つ高麗の看板を書いて頂くのです。言いようのない喜びが生まれました。