世界伝説 第48弾

2005年8月に「高句麗伝説」開催が決まりました。最終打ち合せの為に、6月には再びレバノンへと旅立ちました。明るい日差し、爽やかな風が吹き、レバノンは夏になっています。レバノンの暑さは、風が爽やかなので、苦にならず、とても快適に過ごす事が出来ます。ティールの市長さんにお会いしに伺うのは、必ずレバノンに来たら行う事です。この度も市長さんは、満面の笑みで心から私達を迎えて下さいました。いつもレストランに連れていって下さり、ティールの魚料理やレバノン料理をご馳走して下さいます。とても美味しいお料理を、心からのおもてなしで頂く時、本当に心も温かく、リラックス出来、美味しいお料理を楽しむ事が出来ます。ありがたいひと時です。ティールでの「高句麗伝説」の会場は、この時、海辺となったのです。

海が苦手な私が、海の上に舞台を作り「高句麗伝説」をする事になったのです。人生の不思議さを考えました。苦手なものをなくす為に、大いなる働きかけが、海の上に舞台を作る様に導いて下さったのかと受け止めるよりなく、心は不安で一杯でした。「海が苦手」と一言で言ってはいるものの、本当に不安になり、発狂しそうになるのです。その様な状態で舞台に立ち、詩を詠めるのかという事が私にとって何よりの不安となりました。が、私はこの時はやる気になったのです。どんな事も乗り越えて、必ずちゃんとやっていくと心は決まっていました。海辺での下見の時には、更に苦手な動物が一杯動いています。ここは苦手尽くしなのかと不安で一杯になりながら、覚悟は決めたのです。

亡き父の魂に出会え、新しい人生が始まった地です。この地でコンサートを開催する事を心から望んでいました。私が出演する「高句麗伝説」となった事は予想外でありましたが、この地で開催する事を望んできましたので、どの様な事があっても、自分はやり切ると心は決まっていました。苦手なもの尽くしとなり、震えながらも、お腹に覚悟を決めていく状態となりました。

ティールの海は遺跡が見えるとお聞きし、私達の協力者が船を用意して下さいました。きっと私が喜ぶとお考えだったと思います。私は「フェニキア人」とレバノンの人は思っています。「高句麗のルーツを辿り、フェニキアの地に来た」という事をいつも話しています。皆様大変喜びます。最初に出会ったレバノン大使は、私の事を「エリッサ」と呼んでいました。フェニキアからアフリカ大陸に渡り、カルタゴを作った女王様です。大使は本気になって、大使館のパーティーでお会いする方々に「エリッサ」と私の事を紹介しておられました。フェニキア人なので、海が好きと皆思っています。フェニキア人は海洋民族です。海を渡り生きてきたのです。ところが私は海が苦手なのです。高句麗滅亡後に、日本に渡ってくる時、大変な荒波を乗り越えてきた事を自分は経験していないのに、経験したかの様に分かるのです。途中、荒波にのまれ、生命落としていった、沢山の同胞の死を悼み、悲しみ、それでも生きている人間は、生きていかなければいけない悲しみは、胸が引き裂かれる程悲しいです。先祖が経験した事は、1000年を超えても私の代に受け継がれ、私は子供の頃から海が怖くて、船に乗ると発狂しそうになるのでした。

その様な事は、語る事もなく、海洋民族のフェニキアの地に来たのです。恥ずかしながら、私は船に乗る事はやめようと心の中で決めていました。が、私一人が陸に残る事はとても危険と感じました。ここは、どの様な人が来るか分からないとは感じていたからです。もし、何かあった時に大変な事になると想像すると、一人で陸に残る事は怖くて出来なかったのです。皆と一緒に船に乗る事に決めました。イスラエルとの国境ですので、ずっと銃を向けている軍人の姿が見えるのです。自分の背中は銃を向けられているという事を感じ、いつも身が震えます。レバノンでは、時々経験する事です。イスラエルとの国境の海は、私にはとても恐ろしく「怖い」と叫んでいました。「怖い」と叫びながらも、船首に立っていたのです。いだきしん先生はいつも笑っておっしゃいます。「本当に怖い人間は、船首には立てない。本当に怖いのかどうかわかったものではない。」と。私は、本当に怖いのです。ただ、その時に撮って下さった私の写真は、怖いと感じる人の顔ではなく、喜んでいる人の顔に写っていました。そして何より、この事を提案したレバノン人が大変喜んだのです。「Madam KOMAがこんなに喜んでくれて、本当にうれしい」と御礼を言うのでした。

「怖い」と感じていますが、本当は喜んでいるのだろうかと、初めて考えたティールの会場の出来事でした。何も怖いものも苦手なものもなくなればいいと、心の底から望みました。新しい船出です。続く…。