世界伝説 第43弾

いよいよ前代未聞のペルセポリスでのコンサートに向かい、日本を発つ日がやって参りました。テヘランからシラーズへと移動し、シラーズのホテルからペルセポリスへ行く事になりました。いつも私達と共に活動している通訳をしてくれるイラン人が様子がおかしい事を私は気にしました。いつも明るく楽観的な人ですが、この時は何か思い悩んでいるような感じがあり、呼吸がおかしいように感じたのです。私が目を閉じ原因を調べると不安が見えました。私は彼に何か不安があるの、と尋ねました。すると傍にいた先生が、彼に不安なんかある訳ないよ、と笑っておっしゃったのです。すると本人は、実は、と話し始めたのです。ペルセポリスの許可は副大統領が出してくれましたが、実施する現地が反対しているという事を聞きました。そしてまだ現地の許可が出ていないという事です。大変驚き、目の前が暗くなりました。日本からペルセポリスコンサートに向けてのツアーも組まれ、何日か後には沢山の方々がイランに来られます。コンサートを開催できないとは…と途方に暮れました。いつも元気で明るいイラン人が気に病んで喘息にまでなってしまったのです。大変な心労であるのだという事が伝わってきました。いだきしん先生はその状態を身に受け、変えていくようにずっと働いておられました。向かうよりないのです。コンサートを開催するよりないのです。ただそれだけで、皆で万が一を考えずにやる事だけを考えました。一瞬でも、もし許可が下りなかったらと頭を掠めると真っ暗になります。そこには答えはないのです。やれるように、やれるように考えるより、先は見えないのは当然の事でした。数日経ち、やっと許可が下りたのです。心から安堵しました。これでやれると本当に胸撫で下ろしました。ペルセポリスは聖地ですので、信仰心篤い地元の方々は聖地に楽器を運び込みコンサートをする事はとても嫌がりました。私も単にコンサートであれば嫌がる事も止む無いとはよく分かる事でした。が、いだきしん先生の演奏ですので、内容が分かれば誰もが喜ぶ事という事はよく分かっています。反対している地元の人は、様々に妨害してきました。その状態もいだきしん先生は身に受け、変えてゆかれました。しばらくすると、誰も阻む事がなくなったのです。設営するスタッフは礼儀正しく、ごみを捨てる事なく常にきれいにお掃除をしながら取り組みました。その姿はイラン人にとっては、とても好意的に見られ喜ばれました。日本人は美しいと感動されました。ペルセポリスコンサートには、レバノンから私達の協力者が来て下さいました。何とコンサート前日、大きな素晴らしいお土産を持って来て下さいました。それはレバノンでの「高句麗伝説」開催の日程が決まったというお知らせでした。私は万歳しました。ペルセポリスでレバノンの「高句麗伝説」コンサート開催が決まったのです。その前に「縄文」コンサートがあり、イランのペルセポリスが決まったのです。縄文の精神は世界精神と本当に喜び溢れました。着々と準備が進み、いよいよペルセポリスでのコンサートの日がやって参りました。歴史的な日であります。緊張しながらもコンサート本番を心静かにと内面を感じながら待ちました。いよいよ開演を待つばかりとなりました。開演時間になっても一向に始まる気配がなく、私は大変不安になりました。一緒に動いている通訳するイラン人に電話をしても全く電話が繋がりません。後から聞けば、沢山の人から電話がかかってきて電源が切れてしまっていたそうです。私はただ客席で本番を待つよりなく、何が起こったのか分かりませんが、祈るようにし本番を待ちました。30分過ぎ、40分過ぎ、1時間位過ぎたでしょうか。やっとコンサートが始まりました。厳かな演奏と共にペルセポリスの司祭達が登場されました。

神聖なる場でいだきしん先生がコンサートをされる事のすごさは、その時のエネルギーから空気から生命で感じました。畏れ多い場でありました。ペルシャの歴史、文化を感じる演奏に、書物等によっては知る事のないペルシャの魂に出会い、暮らし、文化に触れる事ができました。そして、悪は消え失せ、正義が勝つという事が見えるように体感出できました。

コンサートが終わり、いだきしん先生が私に舞台に上がって挨拶をしなさいと促しました。私は断りました。女性が舞台に立つ事を禁止されているイランで舞台に立ったら逮捕されてしまう恐怖がありました。いだきしん先生は大丈夫だから挨拶しなさいと何度も促しました。何度も断りましたが、イランのスタッフも大丈夫だからとおっしゃって下さり、私は舞台の上に立ったのです。その時の聴衆の感動の波は、場を変えるエネルギーとなっていました。日本から来て下さったお客様は、歴史が変わる瞬間だったと、それ程の衝撃を受けたとおっしゃいました。確かに場が変わり空間が変わったのです。そして皆様に大変喜んで頂き、拍手をもって迎えられ、ご挨拶をした時は拍手をもって喜んで頂きました。感動的場面でした。コンサートが終わり、コンサートが遅れた理由は、政府の要人が乗る政府専用機が遅れ、到着していなかった故と聞きました。要人が到着し、コンサートが始まったのです。その要人は帰ったので、私が舞台に立つ事をイランの人々は大丈夫とおっしゃったのです。ところがその後、要人は私達の前に現れたのです。私は、一瞬体が硬直しました。逮捕されるのかと緊張しました。が、要人は私に握手を求めてきたのです。イランで女性に握手をするなどあり得ない事です。名刺交換もしてもらえず、挨拶もしてもらえません。エチオピアコンサートの時にこのイスラム教の教義による対応は乗り越えていますので、イランでは何とも思わずに活動ができたのです。そしてペルセポリスの敬虔なる司祭は、コンサート後は私に笑顔で挨拶して下さったのです。コンサート前は目を合わせない様にし、挨拶を交わす事もなかったのです。いだきしん先生はその御姿を見て、普段からこうやって生きていけばいいのに、と一言おっしゃいました。いだきしん先生の演奏は教義を超え、男女の境を超え、人間本来の在り方を取り戻します。コンサート前とコンサート後は、一人一人はまるで別人となったかのように、教義によって作られた人間ではなく、生命本来の在り方が表れる一人一人となっていました。愛であり、希望であります。いだきしん先生のコンサートは、思想、宗教、民族、言語の境を超え、人間がひとつになっていける経験ができます。愛を経験します。私はペルセポリスのコンサート後のご挨拶に、愛は正義を実現すると表現していました。夢の様な奇跡のコンサートは無事に大成功となり終わりました。反対する人々の妨害する気配は一つもなく、皆様整然と祈るようにお聴き下さいました。とても神秘的な知性溢れるイランでこそ聞ける音であり、体感でした。当時のハタミ大統領は「文明間の対話」を推奨していました。私はハタミ大統領の著書を読ませて戴きました。対話とは、相手の事をそのまま受け容れる事から始まると書かれていました。正にいだきしん先生は全ての人の事をそのまま受け容れられます。対話の始まりです。ハタミ大統領は、戦争が繰り返され、問題課題が山積する世界の状況をどの様に解決するのか、外側からは解決できず、社会は人間が作るので、人間の内面が変わる事よりないという事を演説されていました。私はこの大統領にお会いしたい気持ちが生まれ、イランでのペルセポリスコンサート開催に取り組んだのでした。本音は沢山の働きかけがあります。ある時、イラン大使はじめ8名の大使館員が突然東京のコンサートにお越し下さいました。何のご連絡もなく当日いきなりお越しになられたので、大変驚きました。その時のコンサートは一席も空きがなかったのです。急いで補助席を作り、最後列にご案内するよりなかったのです。一国の大使は大統領代理であります。その様な御方を最後列のパイプ椅子にお座り頂いた事に申し訳ない気持ちで一杯でした。が、本当に一席も空きがなかったので、止むを得なかったのです。後日大使よりお電話を頂きました。食事の招待でした。私は喜びお受けし、大使公邸に伺いました。大使はコンサートで経験した事をお話し下さったのです。「人間は初めて行く所であっても知っているという感覚がありますね。いだきしん先生のコンサートではその様な感覚となった。」とお話しされました。魂の現れを感じたとおっしゃいました。そして内面に神を見たとおっしゃったのです。素晴らしいご経験をお聞きし、感動しました。私は初めての場所で、突然胸が動き、涙が流れる経験をよくしています。人生で初めてその経験をしたのは中学の修学旅行の時です。奈良の田んぼの畦道を歩いている時、突然胸が動き、涙が込み上げてきたのです。そのうち、涙は嗚咽となり、号泣となり、田んぼの畦道で立ちすくみ泣き続けたのです。何故こんな経験が起こるのかと中学生の自分は意味が分からず、途方に暮れました。その後京都東山に行った時も懐かしい香りに胸動き、心がときめいてならなかったのです。不思議な経験としずっと心に残っていました。いだきしん先生にお会いした時にこの事を尋ねました。いだきしん先生は、魂とおっしゃいました。魂は知っている事を私は人生で何度も経験してきました。イラン大使はこの様な経験をできる事は人間である事を取り戻し、世界の平和を創るとおっしゃいました。私は世界の平和を実現したく、日本はじめ世界各地でいだきしん先生のコンサートを開催している事をお話しさせて戴きました。大使は大変ご賛同下さり、これからこの活動にご協力しますとお申し出下さいました。私はハタミ大統領の「文明間の対話」の演説のお話をさせて戴き、内面が変わるコンサートをイランで開催したいと願っているとお話をさせて戴いたのです。そして、ハタミ大統領にお会いしたい事をお伝えしました。偶然にも大使とハタミ大統領は親友でした。大使が私の手紙を大統領に届けて下さる事をお約束下さったのです。このような経験を経て、ペルセポリスのコンサートは実現したのです。一つ一つの偶然は大いなる働きかけでした。奇跡は起こったのです。続く…。