世界伝説 第126弾

私は、岩手県の被災地は全部回らせて戴こうという気持ちになり、次から次へとアポを取り出掛けて行きました。宮古から北の方は比較的被害が少なかったと聞いていました。実際行ってみると確かにまるで様子が違っています。あまり被害の跡が見られませんでした。そしてお会いした方々は、先に行こうというお気持ちで動いておられました。岩泉の町長さんや野田村に伺ったりし、コーヒーをお届けして参りました。もちろん、いだきしん先生の事はお伝えしてきました。色々な所に行かせて戴き、色々な方にお会いさせて戴くと、多くを考える機会となります。私はいだきしん先生の事をお伝えさせて戴く事で、今までにない人間が生きていける良い社会を創っていけると考えています。が、中々その様に伝わっていかない事を甚く感じる事が多かったです。岩手県の被災地を回っている時に、いつもエチオピアの支援活動の事をお話しさせて戴いてきたのですが、活動概要が記されている「高句麗伝説」のパンフレットの裏面をお見せしながらお話をさせて戴きます。が、皆様、表の「高句麗伝説」の文字をとても気になさるのです。魂が動いている様に見えてならないのです。岩手県は高句麗とご縁があるのかと感じる様になりました。どこの市町村に行きましても、お会いする方は「高句麗伝説」にとても反応され、魂が動いている様に見えるのです。何かご縁があって私も岩手県に導かれたのかと考えています。何の巡りでここに来たかと考えました。最初は福島が一番近く、また原発事故もありましたので行こうとしました。そして宮城県も沢山電話をし、行く算段もしました。が、残念ながらいつもキャンセルとなってしまうのでした。東京からは一番遠い岩手県に来る様な巡りになった事をとても不思議に感じ、大いなる働きかけと受け止めました。また一番遠い所に来れば、全部の県も回って行けるとも考えました。全ては大いなる働きかけと受け止め、大いなる働きかけを受けられる自分でありたく過ごすよりない事を身に沁み分かる毎日でした。自分の思う様になど決してなるものではない事は長年のいだきで生きる経験によりよく分かっていますが、この時は完全に純粋な気持ちにならなければ、道は創れないという事を痛い事感じる事の連続でした。自分がこうしたいと思うだけで、成らないのです。全ては大いなる存在に任せていくよりない事だけはよく分かったのです。東京に帰ってからも再び被災地への道を探し続け、人探しをし続けました。どの様な御方にお会いすればいいのか常に考え続けました。私が考えた事は、いだきしん先生が関与する復興が出来ればいいという事です。今まで通り建物や道路や街は復興しても、人間が人間としての人生を生きていけない環境であれば復興の意味がないとは考える事なのです。いだきしん先生が特別養護老人ホームを作り、ショートステイや入浴サービスを考え、作られた様に、真に人間とし生きていく上で必要な事をいだきしん先生と話し合い、考え、創り上げていったら本当の復興になると自分は考えていました。故に、いだきしん先生の事をお伝えして通ずる方にお会いしたいとずっと人探しをしていました。ボランティアの方とも共に動き、岩手県の被災地の市町村の行政長に会う様になっていたのです。私はテレビのニュースもよく見ていました。

ある時、岩手県の普代村の事が報道されていました。犠牲者が一人も出なかったと報道されていました。それは亡くなった先代の村長さんが地震が起きた時の為に私財を投げ打ち堤防を作ったので、その堤防があったので助かったというお話でした。この時、未来の為に生きた方がいらっしゃる事で、多くの人が助かっていくのだという事が凄い事だと感動し、涙しました。この様な村長さんがおられた村であれば、村の方も未来の為に生き、考えるという事が身に付いているのではないかと想像したのです。私はこの村に行ってみたい気持ちになりました。ちょうど盛岡でお会いした方が前宮古市長の奥様のお知り合いでした。奥様は普代村の教育長をなさっていました。奥様とアポイントメントを取った時に、出来れば村長さんもご一緒にとお願いしましたら、そのようにしますというお返事を頂いたのです。私は村長さんにお会いする事をとても楽しみに普代村へと行く準備をしました。東京を発つ前にいだきしん先生にこのお話をさせて戴きました時に、いだきしん先生はそういう風に行くかどうかは分からない、と一言おっしゃったのです。そのお言葉も心に受け、あまり自分で勝手にストーリーを描かずに、無になっていくよりないと心を改め、向かったのでした。普代村にて教育長さん、そして村長さんとお会いする事が実現出来ました。私は一生懸命NPO高麗の活動や、いだきしん先生の事をお話ししました。特にエチオピアの活動をお話ししました。飢餓の支援活動で、物やお金よりも人間の内面を変えてほしいという依頼により「天命」コンサートを開催した事、それによってコーヒービジネスが始まった事をお話ししました。既に開催が終わった「高句麗伝説」のパンフレットを持ち、裏面にNPO高麗の活動履歴が掲載されていますので、お見せしたのです。村長さんは、裏面の活動履歴よりも表の「高句麗伝説」のパンフレットの方をずっとご覧になっているのです。魂が出会っているとしか取れない表情をなさっていました。そして、隣の教育長さんに語りかけているのです。高句麗の事を尋ねていました。私が、高句麗王直系子孫と父に言われて育ったという話をした時には、大変敬意を示して下さる表情をなさり、頭まで深く下げられたのでした。大変な方に来て頂きありがとうございます、とお礼までおっしゃったのでした。私も深く頭を下げ、更にいだきしん先生のお話をさせて戴きました。いだきしん先生にお会い頂き、村づくりをして頂きたいお話をしましたら、村長さんはとてもありがたい事とおっしゃったのです。この村までお越し頂けるのかと恐縮しておっしゃったのです。そして、いつお会いしましょうかという具体的な日程調整のお話をし始めた時に、突然雲行きが変わりました。村長さんは、次の村長選には出ないとおっしゃり、自分は村長ではなくなるので出来ないという事をおっしゃったのでした。私は天に昇る様な気持ちで喜んでいましたが、いきなり突き落とされた様な気持ちとなりがっかりしました。が、全ては大いなる働きかけにより動くよりないので、その事を受け止めるよりなかったのです。いだきしん先生がおっしゃった様に、自分が勝手に考え、想像した様にはなる訳がないという事を思い知りました。が、村長さんにお会い出来ました事はとても良い経験となりました。続く…。