世界伝説 第一回

高句麗、丸都山城(中国吉林省集安市にあります高句麗の山城)は発掘調査がされておらず、高句麗時代そのままが残る山城と聞いています。高句麗第2の都があった集安にあります。穏やかな平野を取り囲む様に連なる山々全てに石垣を並べ城壁を作った山城と聞いています。ある時、高句麗の旅にて集安に宿泊しました。夕食を食べている時に突然いだきしん先生が、明日は丸都山城に登ろうとおっしゃいました。以前から丸都山城は発掘調査がされていないので獣道であり、考古学者が入った時に磁石も狂い迷子になるという話を中国のガイドさんから聞いていました。いつかは行ってみたい気持ちがありながら、獣道を歩き、登る事は私には出来ないと考えていました。ましてや登山の準備もなく来た旅でありましたので、明日は無理だと決め込んでいました。いだきしん先生は、明日行くと決めておられ、明日は丸都山城に登ると何度もおっしゃいましたが、私は「行きません」とまた何度もお断りしたのです。そして、中国のガイドの王さんも高麗さんは無理、とはっきりと言っていました。女性が行ける様な場所ではないから、高麗さんは行けないと告げていました。私の頭の中は不安な事ばかりが思い浮かび、行けない、行けないとどんどん頑なに思っていくのでした。いだきしん先生が「大丈夫だよ。先祖も好太王も助けてくれるから」とおっしゃいました。いつもであれば大変喜ぶお話でありましたが、この時の私は、私は助けてもらえないと決め込んでいたのでした。助けてもらえるわけがないと思い込んでいたのです。すると、いだきしん先生が「助けてくれない先祖なんか捨てちまえ」とおっしゃいました。その瞬間、それは出来ません、と即座に答え、私は登りますと言っていたのでした。言葉は生命です。登ると決めると頭の中の不安はなくなり、登れる様にと準備をし始めました。部屋に帰り荷造りをしました。なるべく身軽にと最小限のものだけをバッグに入れました。万が一倒れた時に身元が分かる様にとパスポートは必要と考えた事だけ覚えています。あとの物は持たずにも行けると考えていました。最小限の荷物だけを持っていこうと備えました。緊張体質の私は、夜も眠れずに過ごす事を覚悟していましたが、意外にもぐっすりと眠る事が出来たのです。そして朝は爽やかに目覚めました。身軽に素早く身支度を済ませ、準備万端となり集合場所に行きました。そして、丸都山城の登山口に辿り着きました。登山口といっても野原でした。ここから登っていくのだと聞き、私は登り始めました。ここに足を着けばいいと、ふと感じるある感覚がありました。次はここにと教えられる様にし足を着いていきました。道はありませんが足を着く場は分かっていました。そして、私は道を知っていました。初めて訪れた地でありますが、私はこの道を知っていると内面で確かな感覚がありました。気づけば、教えられる様にし足を着き、歩き、時折触れる木の枝も木の葉も生命にやさしく、只々心地良いばかりであります。風が吹けば、宇宙にまで通ずる様な無限な世界を体感します。途中、老いた女の人も子供も重い荷物を担ぎ登っている魂の姿が見えました。私達も登れるから大丈夫だよと励まされ、私は一緒に登っていこうとただひたすらに見えるがまま、教えられるままに歩を進めていきました。あっという間に頂上に着いていました。周りには誰もいませんでした。私は一人でどんどん登っていたのでした。頂上に着き、沢山の木の枝を払いのけながら歩いていると、突然ガサっという音がしました。そして、男の人の美しい声で、よく来たね、と聞こえました。あまりに美しい声に驚きながら、同時にこの山の頂上に男の人がいるのかと突然怖くなったのです。振り向くと大きなきれいな鳥がいました。美しい男の人の声と聞こえたのは鳥の声だったのです。私を迎えてくれたのだと分かり感激しました。いだきしん先生達はどこにいるのかと、頂上から大声で「先生」と叫びました。何度か叫んでいる内に「おーい」と下から声が聞こえ、「行くから待っていろ」という声が聞こえましたので、私は、頂上で木の声を聞き石垣に手を当て魂の声を聞きました。木に触れても、石垣に触れても聞こえてくるメッセージは「生命ひとつ、愛」でした。「生命ひとつ、愛」で生きた地である事を生命で分かりました。そして、耳では聞こえない独特の音が聞こえます。宇宙に通じている音と分かります。次元も空間も拓かれ、この地は宇宙と通じているのだと分かりました。高句麗人は宇宙と通じる丸都山城で暮らし、宇宙と交信しながら生きていたのだと分かります。そして、常に敵が攻め入る戦の時代にあり、皆で「生命ひとつ愛」に生きるよりない事を知りました。

いだきしん先生達が到着されました。早速撮影が始まり、私もビデオメッセージを撮って頂きました。その時、いだきしん先生は、「これで『高句麗伝説』は『世界伝説』だね」とおっしゃって下さいました。あまりに突然のお言葉に意味を分からずにいましたが、只々うれしく、喜び溢れました。意味を問う事などこの場では場違いである事は分かりますので、「世界伝説」と心の中で叫びました。そして「そうです。『高句麗伝説』は『世界伝説』です」と叫びました。これで、世界へ向かっていけるのだと大きな喜びが湧き上がりました。丸都山城でのひと時は、時間を忘れ、あっという間に過ぎ去りました。帰路も難無く楽々下り、今も道中を思い出しても何の苦もなく、時間も感じず、あっという間だったという体感しか残っていません。その後、世界伝説について考えました。私は、好太王様が道を教えて下さった事、高句麗人が老いた女の人や子供の姿となり、年をとっても子供でも重たい荷物を担いで登れた山だよと励まして下さった事、涙があふれる程うれしく、感謝の気持ちで一杯です。自分の内には、この道を知っている魂がある事を生命をもって分かりました。私は、生まれた時から人の運命が素通しで見え、目に見えない霊魂や霊界もそのまま見えます。そして、木や花や鳥や風や自然の生命の声が聞こえ、詩に表し生きてきました。この様な感性は人からは理解されず、生きる事はただ苦しく、檻の中で生きている様だと悩み続ける人生となりました。いだきしん先生と出会え、生まれながらの運命が解放され、生まれもっての目に見えないものが見える感性は、潰す事でも、隠す事でも、否定する事でもなく、表し活かしていける事を経験し生きていける様になりました。私の生命には、高句麗の歴史が受け継がれていました。生まれつき、何故自分はこの様な性格なのか、こういう感覚をもっているのか等々いつも考えました。生まれた時からある性格、感覚だったので、私が生まれる前の人のを受け継いだのだと自分では考えていました。それは、幼い頃から瞳の奥が深い悲しみに満ちているとよく言われました。確かに鏡で自分の瞳を見る時、なんでこんなに悲しいのだろうかと感じていました。瞳に映る悲しみを自分はいつ経験したのかと考えました。が、当時3歳か4歳の子供です。生まれて3~4年の子供が経験する様な悲しみではない事はすぐ分かりました。そして、自分の生まれた環境は悲しみを経験する環境ではありませんでした。皆にかわいがられ、大切に育ててくれていました。この悲しみは私の悲しみではない事は子供でも分かりました。それでは何故、自分はこんなに悲しいのかと問うていきました。胸の奥深くに悲しい感覚があるのです。この感覚にふれると涙ばかりが溢れるのです。ふとこの感覚は私が生まれる前の人が悲しかったから私は生まれる前から悲しみを受け継いで生まれたから悲しいのだと気づきました。運命に気づいた始まりです。悲しみが身に付いていると、悲しい目に遭い、悲しみが繰り返されます。生まれた時からの悲しみは、次の世代には受け継がせたくない悲しみでした。自分の代で断ち切れれば自分はこの世に生まれた意味があると考えていました。今でも家に残っています10代の頃の日記帳には「自分がこの世で出来る事と言ったら自分の業を子孫に受け継がせないこと。私は、子供は産めないな」と14歳の時に記してあります。人間は、生まれながらに親や先祖から受け継いだ運命が身に宿り生まれ、性格、気質、感覚、感情となり運命のままに生きるよりないのが人間の人生ということが、悲しくてなりませんでした。運命が変わらなければ、人間として生まれてきた意味がないと考え、運命変えること、人間としての真の人生を生きることを求め続けて生きてきました。生まれつき人の運命まで見えていましたので人間は運命には逆らえず、運命のまま生きるよりないという限界を見、生きることに希望を持てずに苦しみ生きてきました。自分自身も性格を変えることを努力しましたが変わらない限界に行きつき、絶望を感じ始めました。自分で変えたい程好まない性格で何故生まれたのか、何故生まれつき性格が決まっているのか等々、苦しむばかりでした。 身も心も限界にあった時、いだきしん先生に出会い、生まれつきの運命が解明、解放されるという奇跡を経験したのです。私はこの人生の奇跡を世界中の方にお伝えしたい気持ちが生まれ、どのようにお伝えするかを考え続け、偶然の巡りで「高句麗伝説」が完成したのです。