盛岡で見る桜の花の美しかった事は今でも心にあり続けています。どこまでも清らかで、言葉に尽くせぬ程透明な輝きに満ちて美しく咲いていたのです。大地震が来、津波に襲われ沢山の方が亡くなるという悲しい事が起こりましたが、今年の桜の花は人間の悲しみと共にありながら、それでも生きている人間は亡くなった人の為にも良い社会を創っていく様に生きていきましょうと励ましてくれている様でした。私は悲しいまでに美しい桜の花を見、桜の花に涙流れ、生命の内は洗い浄められていくのでした。
初めていだきしん先生の東日本大震災チャリティコンサートを盛岡で開催する日がやって参りました。この日を心待ちにしていました。盛岡のマリオスというパイプオルガンが備えてある、駅にある小さなコンサートホールです。私は、ふと外に出かける気になり、歩き始めました。遠くに見える分譲マンションの案内の看板が目に飛び込みました。思わず、このマンションだと心の中で言っていたのです。盛岡から東京に帰った後、自宅のパソコンを開くと、この分譲マンションの案内が入ってくるのです。雫石川と中津川の合流地点という地図に書かれてある文字を見、私は郊外にあるマンションだと思い込んでいました。が、そこまで詳しく地図を見ていたのでした。その事を思い出し、パソコンで見たマンションはあのマンションだと遠くに見えるマンションを目指し歩き始めました。歩けば5分位の所です。買う気もないのに内覧をお願いしたのです。そしてご案内頂いた部屋の窓の外を見た時、あまりに懐かしい風景が目の前に広がり、胸が動きました。高句麗の地とよく似た山河の風景です。そして川が流れているのです。私はいつも川の畔の風景を見ると、魂揺さぶられて涙が込み上げるのです。何と美しい風景でしょう。見ているだけで胸動き、感動しました。目の前に見える山を指差し、あの山は何という山ですかと案内して下さった方に尋ねたのです。駒ヶ岳ですとお返事が返って来ました。私は胸の奥でドキリとする音が聞こえる様に胸が動いたのです。駒ヶ岳ですかと繰り返し申し上げ、胸の内はとても懐かしい不思議な感覚が広がっていくのでした。ふと、ここであれば詩が書けそうと呟いたのでした。この家に住んで詩が書けたら素晴らしいと感じたのでした。まさか内覧をし、この家に住む気が生まれるとは予想もしていない事でした。ふらりとただ入っただけだったのに、まさかその様な気持ちが湧き起こるとは驚きました。
そのまま引き上げ、コンサートホールに向かいコンサートの準備をしました。いだきしん先生のコンサートのメッセージを読む時は胸が震えていました。声を出せば涙が溢れてくるのです。メッセージは、「絆」という言葉が入っていました。いだきしん先生は何故こんなにもよくお分かりになるのだろうかと大変驚いたのです。私が被災地を回っている時に、よく見る言葉が絆という言葉でした。絆と書かれた幟があちこちで立っていたのです。東北の地は絆が深い地なのだと感じていました。この度の様な大惨事が起こった時には、皆、力を合わせ助け合っていくのだと感じていました。コンサートメッセージを読むだけで涙こみ上げる状態を抑えながら、一生懸命メッセージを読ませて戴きました。演奏が始まると、胸の内から死霊が出てくる事が見え、感じ、驚くばかりでした。私が被災地で見たものは、瓦礫の山でしたが、そこには亡くなった事も分からないで津波に呑まれた瞬間の沢山のお顔が見えたのです。浮かばれない状態とはこの様な状態なのだという事を身をもって感じ、言葉にならない辛さを感じていたのです。瓦礫といっても、人が住んでいた家が壊れた状態です。住んでいた方は、自分の家を瓦礫と呼ばれる事にとても心痛めているとお聞きしましたので、私はこの時からあまり使えなくなりました。死霊がどんどんどんどん私の体から出て行くのでした。コンサート中ずっと続きました。コンサートが終わり、やっと胸が楽になったのです。生きた心地が戻ってきました。私は被災地に行ってから、ずっと死霊を身に受けていたのだという事を初めて気づいたのです。振り返ると様々な事が思い出され、合点が行くのです。体は苦しいという事すら感じられない程苦しく、鈍くなっていたのです。