夜になり盛岡に着き、ホテルに入りました。明日はいよいよ被災地となりました宮古に向かいます。十分準備し、備え、休みました。ところがベッドに横になっても眠気はひとつも起きず、頭が冴えてくるばかりなのです。全く夜眠る事が出来ずに朝を迎え、身支度を整え車に乗り込みました。宮古への道は過去にも何度も通っています。いだきしん先生に出会う前も宮古へ行った事があります。そして「本音で生きて下さい」の本を出版し、全国で講演会活動をした時に、盛岡での講演会の後にいだきしん先生が宮古へと連れていって下さったのです。浄土ヶ浜に行き、そのまま一般道を南下したのです。既に夕方となり、日が暮れた海沿いの道を車で走る時に寂しさと悲しみが胸に襲ってきました。人間とし生まれ、生まれながらの運命を受け継ぎ生きるより知らない人生を過去に生きた人達はずっと生きてきました。今、初めて私達はいだきしん先生に出会い、生まれながらの運命が解放され、真の自分で生きる人生を生き始めています。真の自分で生きる人生が、人間とし真の人生であると日々感謝し生きています。真の人生を生きる事が、真の喜び、愛に満ちる人生であると分かるにつれ、人間としたった一度より生まれてこない生命、人生ですのでこの様に生きられる事を知らずに生を終えていく事はあまりに悲しいと涙が込み上げてきたのです。いだきしん先生がおられない時代であれば、そう生きざるを得なかったのです。が、今はいだきしん先生がいらっしゃるのです。お会いになれば、運命が解放され真の人生を生きていけるのです。私は、この地に生きる方々は、生涯先生の事を知らずに生きていくのかと考えただけで胸が悲しみで一杯となり、涙が込み上げてきたのでした。その瞬間、私はいつかこの地に来て「本音で生きて下さい」の本を紹介し本音で生きる事をお伝えしたいという気持ちが生まれたのです。その時に買った車が戦車と呼ばれているゲレンデです。
行商車と名付け用意したのですが、その後の巡りで中々「本音で生きて下さい」の本を車に積んで行商する時がなくなりました。そして、その車で被災地に来る事になったのでした。宮古への道中は、とても美しい風景が続きます。美しい森、流れる川、全ては美しく、過去に何度も来た時から美しい風景に感動して車を走らせた事が思い出されます。宮古に着きました。コーヒーの炊き出しをする場所に行き、コーヒーを淹れ始めました。東京にあるカフェはお菓子も作っていますので、コーヒーやお菓子を一杯積み込んで皆様にお配りさせて戴きました。
私は途中から抜け出し、宮古市役所に行ったのです。コーヒーの炊き出しと人探しもしたくて宮古に来たのです。市役所も津波により1階は水につかっていたと聞きました。時計は津波があった時間で止まっていました。2階から上へと全ての階の一部屋一部屋を訪ねて回りました。いらっしゃる方とはお話もさせて戴きました。ある福祉の関係の部署の方とお話をさせて戴き、いだきしん先生の働きを伝えました。いだきしん先生は日本の未来を見、老人ホームを作り、ショートステイや入浴サービスという仕組みを日本で初めて作った方であります。そのお話をさせて戴き、復興の支援をしたい気持ちを伝えました。お話は通じましたが、お話をしている内にふと、これからやろうとしている復興支援は既に何十年も前にいだきしん先生が日本で初めて創った仕組みであると気づいたのです。先生が創られた仕組みをここで再び繰り返す事が支援活動ではないのだと気づき始め、お話は通じましたがそれ以上具体的に私から申し上げる事がなくなってしまったのです。人に会わなければいけないという気持ちで人がいらっしゃれば話しかけ、何の為に私がここに来たのかという事を話し続けて宮古市役所を全部回り引き上げました。
コーヒーの炊き出しも終わる時間となり盛岡へ帰る事となりました。いだきしん先生より被災地に行った時に被災地の方の為にお手洗い等が設けられているので、ボランティアで行く人間が使わせて頂く事は申し訳ない事だから、という旨のお話を伺っていました。私はいつも、恐らくここが最後と想像できるガソリンスタンドでガソリンを入れ、コンビニでお手洗いを借りて被災地へと行っていました。この時も炊き出しが終わり、盛岡へと向かう国道に入る前の所にマクドナルドを見つけ、その日初めての食事をしました。ハンバーガーとアイスコーヒーを頂いた時、不思議と生命の内に爽やかな風が吹いたのです。町が壊滅し、沢山の方々が亡くなった地でこの様な風が吹くとは自分では驚きでした。春の海の生命の息吹まで感じる風なのです。自然の生命は変わらず生きているのだという事を感じました。地震により人間が作った町は壊れ、沢山の尊い生命が失われました。自然の生命は生きていくのだという事が生命で分かる経験となりました。今でもあの時に感じた春の海の生命の息吹、生命の内に吹いた風があり続けるのです。