世界伝説 第92弾

2008年9月7日に突然「高麗恵子スカイロケットセンター」をオープンしました。ある日、夢を見て、東京表参道の路地裏に新築の物件があると夢で知らされました。丁度、原宿で私の心模様作品展を開催していた頃です。ボランティアの方が、一枚の物件案内を私に持ってきてくれました。詳細を見ると、夢で見た物件とすぐに分かりました。すぐに内覧に行きました。正に立地条件も夢に見た通りでした。3階建て、地下1階の4フロア1棟貸しの物件でした。私はすぐにここを借りると決めたのです。が、何の為にここを借りるのかと自分で考えても中々理由が見つからなかったのです。それでも借りると決め、生命が進んでいく感じがあり止める訳にはいかなかったのです。契約の段階で、契約書にある文面が私達には不利な内容であると感じ、弁護士にも見てもらい相談した結果、やはり不利であるとの答えを頂きました。その事を不動産屋さんに伝え、修正して頂く様にと依頼しました。その時、私は契約書の段階でこの様な事があると幸先が悪い様な感じがし、この物件は契約する事をやめようかと考え、その事も伝えたのです。もし、契約書の文書を変えて頂けない様であれば、借りる事はやめますと伝えたのでした。不動産は縁物といつも感じています。縁がある物件は難なく玉が転がる様に転がっていく事を経験しています。何か障害がある物件は、難が多く私は縁がないと感じるのでした。断るつもりでいると、先方からこちらの申し出をそのまま受けた文言に変えてくれた契約書が届いたのです。これはもう断る事も出来ないと考え、契約をしたのです。物件引き渡しの日、ボランティアの人にお掃除に来て頂きました。お掃除はして頂いてもここは何に使っていいのかと、皆目見当がつかなかったのです。ただ、夢のお告げで見た事は「ここから世界へ向けて、新しい人間の生き方と経営のあり方を発信する」という言葉が生まれたのです。その拠点にしたいと考えて借りたのですが、一つ一つのフロアに何を置いていいのか、やる事が見えなかった為に大変迷ってしまったのです。家賃は発生していくのに、何をしていいのか暫く考え、悩み、決まらずにいました。1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ、少しずつ作品を創ったり、看板の準備をし始めました。

看板は、いだきしん先生に墨と顔彩で書いて頂いたのです。最初に墨で「高麗」という文字を書いて頂きました。その上に金の顔彩を塗ったのです。黄金に輝く「高麗」の文字は、世界をひとつの国とした人間の生きる国の柱となる文字となると見えました。神々しく、威厳があり、美しく、揺らぐものはない大宇宙に立つ柱と見えました。

看板は、出来上がりました。いつオープンしたらよいのかと考え、悩み、中々オープン日を決められずにいたのです。そんなある日、雷鳴轟き、稲光がし、「早くしろ」と怒られている様に感じました。間もなく土砂降りの雨が降ると分かりました。その前に看板を運び出し、立てなければいけないと、咄嗟に考え、そばにいた仲間を呼び「さぁ、運ぶぞ」と言ったのです。自分ではこの様な言葉遣いであったかは覚えていませんが、共に看板を運んだ2人の仲間は「よし行くぞ」と言っていたというのです。私は、看板を生命賭けで運ぶ気持ちになりました。戦の時、生命賭けで敵の目から守り、無事に届けなければいけない大切なものを運んでいる感覚でした。隙なく、素早く、一つも傷つける事はあってはならず、大切なものは大切なまま、美しく運ぶ事を生命賭けて行っていくという気になっていたのです。3階から外の階段を看板を大切に持ちながら、それでいて素早く運び出したのです。そして、地下に運び込み、地下の奥の真ん中に看板を立てたのです。その瞬間「建国」と叫びました。新しい国、新高句麗建国という気持ちでした。この場所は新しい国を創る場所だと、その一言で明確になったのです。

そして、明日オープンすると決めたのです。急いで高麗恵子ウェブサロンに「建国」というタイトルで明日のオープンの知らせを書きました。突然、オープンする事になったのです。急いで作品を展示し、販売物も展示し、徹夜状態で準備をしました。そして翌日、建国の日、オープンの時がやってきました。高麗恵子ウェブサロンを見て下さったボランティアの方や、いだき講座受講生の方々が沢山お越し下さり、お祝いをして下さいました。皆様、突然オープンするとは想像もしていなかったと皆驚きながらも瞳が輝いていました。未来に希望を感じる瞳の輝きに私はとても嬉しく、喜びで一杯でした。丁度「建国」というタイトルで書き込みをする何時間か前です。「生命の農業」で扱っています、青森の「嶽のきみ」が美味しかったという書き込みを書いていたのです。多くのボランティアの方は皆笑っていました。「とうもろこしが美味しいと書いたその何時間後にはいきなり『建国』となり、何が何だか分からなかった」と。「だけど、胸がときめいて、ドキドキしてならなかった」と口々に言っていました。私もこんなに面白い事はないと感じました。自分でも予測もせずに、その日の昼間はとうもろこしを食べて喜んでいたのです。まさか夕方に「建国」と叫ぶとは想像もしていなかったからです。そして、明日オープンするという事も全く考えていませんでしたので、備えもしていなかったのです。オープンする時は突然するものだと、自分でも驚きながら、胸がときめいてならないオープンでした。

 「高麗恵子スカイロケットセンター」という名前は、いだきしん先生がつけて下さいました。ある日、大阪での応用コースに行く時に、新幹線が新大阪駅に到着する寸前、席を立ち出口の方に向かいました。その時、新幹線が止まるのを待っていると、いだきしん先生が「スカイロケットってどうか」とおっしゃったのです。私はよく聞き取れずに聞き直すと「スカイロケットってどうか」と再びおっしゃって下さいました。私は「スカイロケット」という音の響きから、世界中で売れている楽器か何かの機材であると感じたのです。私は「大変申し訳ない事に、その物を知らないのです」と恥ずかしく感じ申し上げました。すると先生が再び「スカイロケット」とおっしゃったのです。その瞬間です。あぁ、私が借りた一棟建てのビルの名前だとやっと合点がいったのです。「高麗恵子スカイロケットセンターでどうだ」とおっしゃって下さいました。世界中で売れている何かだと見えていましたので、素晴らしい名前だと感じ、胸が拓き、驚喜しました。そして、先生がおっしゃったのです。「スカイロケットというのは造語であっても、これでいく。」とおっしゃって下さいました。そして、世界に向け発信する拠点は「高麗恵子スカイロケットセンター」と名付けられました。私が見えた様に世界に売れていく名前をつけて頂きましたので、実現に向かいたい気持ちで今も励んでいます。

オープンして翌日、昨日オープンしておいてよかったと感じる出来事が起こりました。私の血圧が突然上がり200を超え、スカイロケットセンターで倒れてしまったのです。手足は冷たくなり、起き上がれなくなってしまいました。何が起こったのか見当もつきませんでした。いだきしん先生にお電話をさせて頂き、身に受けた苦しみや、重荷を引き受けて頂きました。次第に、手足が温かくなり、最も苦しい状態は抜け出しました。お金の事をお話されたと記憶しています。個人のお金の使い方から世界全般の経済の厳しさが、あるエネルギーとなって襲ってきたのです。この事がきっかけとなり、血圧が上がり起き上がれなくなりましたが、いだきしん先生に引き受けて頂き、その日は何とか起き上がり家に帰ったのです。この日から血圧が高くなる様になってしまい、驚きと戸惑いの日々が続きました。私は、血圧が低い方でしたので、高くなるという事がどういう状態なのかと自分自身が分からなかったのです。その日から血圧を毎日測り始める様になりました。毎日高いのです。体もふらふらし、今までの様には動けなくなりました。

 数日後、狛江エコルマホールにていだきしん先生の応用コースと私が出演する「大地の声」コンサートが開催される日でした。具合が悪くても休むという考えはひとつもありませんので、ふらふらしながらも自分でポルシェを運転し、先生の娘さん、笑美ちゃん、愛ちゃんをお乗せし会場に向かったのです。応用コースが始まってからは、座っているのもやっとの状態で、大変申し訳ないながらお話もよく聞こえない状態でいました。応用コースが終わり、次は自分が舞台に立たなければいけないのですが、とても立てる様な状態ではなかったのです。楽屋の畳の上に寝てしまいました。起き上がれないのです。「大地の声」に出演しなければいけない事は重々分かっていますが、化粧すら出来ない状態だったのです。いよいよ開演30分前となり、気持ちは焦っても体は動かなかったのです。いだきしん先生が楽屋に来て下さり、一言おっしゃいました。「等身大の東明王が抜けた」。深い意味は分かりませんでしたが、体は反応し、体では合点がいく感覚がありました。何かが大きく抜けていったのです。同時に立ち上がったのです。そして、化粧をし、髪をセットして頂き、着替え、ぎりぎり開演の時刻に全ての準備が整いました。そして舞台に上がり、詩を詠みコンサートは無事に終わったのです。今考えても、はらはらする出来事でした。が、ぎりぎりいだきしん先生に解明して頂き、起き上がる事が出来、無事に「大地の声」コンサートを開催出来ました事に只々感謝の気持ちが溢れるばかりです。この日から、体が大きく変わり、前の様には動けない状態となりました。いだきしん先生から「等身大にいた東明王が抜けたので、これからは自分でちゃんと歩いて生きていかなければいけない」とお話頂きました。「檀君」の時もそうでしたが、自分と一体となっていた存在が抜けていく時、私はもぬけの殻の様になり何も出来ない人間となります。この時も何も出来ない人間となり、車の運転も暫く控えました。そして、檀君が抜けた時と同じに、いだきしん先生が大きく体が変化した時に箸を持つ事から一つ一つ覚えていったというお話を思い出し、この事が励みで、私も一つ一つ箸を持つ事から覚えていこうという気で生き始めたのです。とても車の運転は出来るものではありませんでした。が、箸を持つ事、食器を洗う事、お風呂に入る事、顔を洗う事、化粧をする事、日常生活の全てを一つ一つ新しく覚える様に取り組んでいったのです。続く…。