2004年は国創りの年とし、日本を北海道以外縦断し「国創りコンサート」と銘打ち「高句麗伝説」を開催出来ました。そして、ペルセポリスへと向かえたのです。素晴らしい大いなる働きの導きと、夢を見ている様な信じられない様な気持ちで、ペルセポリスコンサートを受け止めました。「これで何でも出来る」と大いなる希望と勇気を与えられました。年が明け、2005年となり、私は予てから高句麗の地があった、現在では中国となっていますが、高句麗の地があった所で活動したい気持ちを実現したく、動き始めました。とても寒い2月、北京へと旅立ちました。日本でお会いした中国人は、私の気持ちをとても喜び、賛同下さいました。「故郷は中国東北部、2000年前の話ですけれど」と言いながら話す話を、感動しながら聞いて下さいました。若い世代の方でしたので「学校では高句麗の事は習っていない」とおっしゃっていました。故に高句麗の事は知らないという事が分かりました。私の気持ちに賛同し「協力します」とお引き受け下さいました。その方にお会いし、コンサート会場の下見をしたく、またエチオピアコーヒーを広める事もあり、北京に行ったのです。1998年に高句麗の地へ行く時に立ち寄った北京とは、街はまるで変っていました。1998年の時は、空港からホテルに向かう道は、田園風景が広がり、道端で髪を切る人や洗濯をする人、路地で野菜を売る人等々、私の知らない昔の光景でした。この度は、そういう街並みは一掃され、整備されていました。古い家もなくなり、新しい建物が沢山立っていました。まるで違う街となった北京に驚きました。北京オリンピックに向け、古い家は一掃したという事を聞いてはいましたが、目の当たりに見て大変驚きました。ホテルに着きました。ホテルもまるで変わっていました。近代的な外資系のホテルとなっていました。ホテルマンは西洋の人の様に愛想よく出迎えるのです。以前とはまるで違う事にただ驚くばかりでした。私の中国での代理人となる方とホテルのラウンジでミーティングをしました。私の夢が全て叶うときめきに満ちていました。まず、コンサートを開催する事、そして北京オリンピックに向けて、北京でカフェをオープンする事等、話は弾みました。全て実現出来るなら、こんなに嬉しい事はないと、胸の内は希望にあふれていました。寒い北京の街を車でコンサート会場へ向かいました。エアコンが効いていない大きなコンサート会場の下見は、電気もつかず、薄暗い中を見て歩いたのですが、中国の体制を感じる空気でしたので、とても緊張しました。それでもコンサートが出来るならばありがたい、という気持ちで暗くて寒い中を見て回ったのでした。昔の中国の民家の中国料理店に連れていって頂きました。1998年の時も北京ダック発祥の店に連れていってもらい、何とも懐かしい香りに胸が動いたのでした。古い昔の中国の民家であり、庭の木が風に揺れているのです。そして、中国の音楽が流れているのです。胸動く空間でした。



