朱蒙様が眺めた平野
私も眺め
永遠の時を生きる
高句麗の愛
永遠

若き日の朱蒙様がここに立ち、眺めたであろう平野に私も立ち、2000年前と今がつながる時の流れの中で、生まれてきた意味を問い、考えます。生まれた時から生命の内に流れる歴史の流れを感じ、この流れを絶やすことはできないことだけはわかり、どんなに苦しくても生きていこうと生きてきました。いだきしん先生に出会い、生命の内に受け継がれた高句麗の歴史の真実が紐解かれていくプロセスは、生命の内に流れる歴史の流れが明らかに見え、現る経験となりました。現れ出た真は、美しく空間を一新する力がありました。そして高句麗を建国した朱蒙様が、最初に平地に作った城跡まで訪ねる人生となったのです。私はこの地を知る魂の存在に気づきました。高句麗の遺跡や古墳が世界遺産に登録されてから訪ねました。何度も訪ねた高句麗の地ですが、この時まで気づかなかったのです。初めて高句麗の地を訪ねたのは1998年5月です。その時は北京から夜行列車に乗り、18時間かかりました。2度目は大連から悪路を延々と車に揺られ、早朝に大連を発ち、夜遅くに高句麗発祥の地五女山がある桓仁県に到着しました。2006年に訪ねた時は瀋陽の空港に降り立ち、高速道路が開通していましたので、車で6時間ほどで到着しました。いくつもの山を越え、ある所に着くと、突然胸の奥深くが動くのです。内面深くを感じ、どこまでも澄んだ静けさを感じ、心が澄んでいきます。道端には「桓仁県」と書かれた立て看板が立っています。高句麗の地に着いたことを内面は教えてくれています。そしてある所に着くと、突然胸の内がときめき、喜び生まれます。「五女山」と叫びます。現地ガイドは違うと答えます。私は先祖発祥の地をなぜ間違うのかと自分に問うても答えがありません。何度このことを繰り返したことでしょう。そして、ある年、高句麗の地の春も夏も秋も訪ねることができました私は、雪が残る時期の高句麗の地を知りませんでしたので、この年には何としても訪ねてみたい気持ちで訪ねました。いつもと同じに瀋陽の空港に降り立ち、車で高速道路を桓仁県に向かいます。いくつもの山を越え、内面深く研ぎ澄まされる空気に身を正し、桓仁県に入ります。そして胸動く場所に来ると、五女山と叫びます。現地ガイドから違いますと答えられ、がっかりします。が、この時は瞬時に平地に作った城はありますよね、と尋ねました。現地ガイドは「あります」と答えます。私は驚喜しました。あるなら今まで何故教えてくれなかったのかと言いたい気持ちはありましたが、抑え、連れて行って欲しいと頼みました。明日(翌日)、五女山に登る前に行くことになりました。

寒い朝、鏡に向かい、化粧をしました。青い光が映る自分の顔は男性のようだと驚きながらも化粧を続けます。化粧すればする程、男顔になることに驚くばかりでした。それも凛とした聡明な男性のような顔になります。ふと朱蒙様はこのようなお顔立ちでいらっしゃったのかしらと不遜ながらも想像し、喜びが生まれるのです。男性のように颯爽とし、ホテルを出、車に乗り込み、平城跡に向かいました。着いたところは私がよく知る地でした。いつも五女山と間違え、叫ぶ場所でした。魂は高句麗最初の城跡を知っているとわかり、人間の計り知れない存在を感じ、時を超えて自分が今、ここに立っていることを受け止める時、人間は死んで終わる存在ではなく、永遠に生きる存在であることに畏怖を覚え、魂震えるのです。早春の香りに包まれ、早春の風に吹かれ、雪が残る平野を眺める時、高句麗時代に朱蒙様がここに立ち、同じ平野を眺めていたと感じる瞬間がありました。国創りの息吹溢れ、国創りの風が吹きました。生命の奥から国を創る力が生まれます。高句麗の栄華を極めた闘い、神を描かずして神を表す文化、戦の時でも皆で生命ひとつに生き、ぬくもり溢れた生命躍動する暮らしが見えます。国は滅びましたが、高句麗魂は2000年を超えても生き続けています。私がここに立っていることが証です。高句麗魂は永遠です。