世界伝説 第89弾

サンクトペテルブルグの次はパリでのアポイントメントが待っていました。久しぶりにパリの空港に着きました。この度もリッツカールトンホテルに宿泊しました。以前来た時とは、私には違うホテルの様に感じました。チェックインする時の時間の長い事には、ほとほと疲れました。サービス業であるのに、お客様をこんなに待たせて平然とゆっくりとやっている状態が、私には異常に見えたのです。エチオピアやタンザニア、そしてレバノンをはじめ中東に行く様になり、特にレバノンでは、ホテルのチェックインも空港のチェックインも数分で済むのです。その手早さといったら見ていて気持ちが良い程無駄がなく、リズム感があり、リズムにのってどんどん作業をしていきますので、待っているとすら感じないのでした。その経験に慣れてしまって、パリに行った時にはスローモーションビデオを見ている様でした。なんでこんなに遅いのかと、同じ人間には思えない気持ちとなりました。40分位かかり、チェックインが済み、やっと部屋に入れる始末でした。部屋は、落ち着いて過ごしやすい部屋でありましたので、ありがたく感じていました。パリでは、マケドニアにてお会いしました、マケドニアの国連大使とお会いする約束がありました。また、もう一つユネスコの会長にもお会いするアポイントメントが取れていました。高句麗発祥の地、五女山にて「高句麗伝説」を開催したい気持ちがずっとあります。中国共産党の許可は下りても、実施する遼寧省の許可が下りずに断念しましたが、五女山にて「高句麗伝説」を開催したい夢は、あきらめきれずにずっと道を探し続けています。ある時は駐日タンザニア大使にお願いをしてみました。大使はとても私達に協力して下さいます。日本にいらっしゃる時は、時々食事に招いて下さったり、大使館によんで下さったり、色々なパーティがある度に招待して下さったりとお会いする機会が多かったです。私のやりたい事もご存知でいらっしゃいますので、相談をすれば協力する方向で色々お考え下さいます。五女山での「高句麗伝説」開催に向かい、ご相談させて頂いた時に、タンザニア政府から中国政府に手紙を送って下さる事になったのです。大変お気持ちが嬉しく、ありがたい気持ちで一杯でした。が、何ヶ月経っても中国政府からは何の返事もないという事を、大使はある日首をかしげて伝えてきました。外交文書で出していますので、返事が来ない事はあり得ない、とおっしゃいました。あり得ない事が起き、余程この件は困難であるのだという事を大使は察せられたのです。そして、五女山城は世界遺産に登録されユネスコが管理していますので、ユネスコから道を創ったらいい、とのご提案を頂きました。私の先祖が現在でいうと発祥が中国であり、最後の都が北朝鮮、そして国が滅んだ後日本とロシアに亡命した事をお話すると、大使は笑いながらおっしゃったのです。先祖もインターナショナルだから、あなたが世界中を歩いていくのも納得出来る、とおっしゃったのでした。そのお話を聞いた時に、私も生命の内で合点がいったのです。この様に動いていくのも、先祖の悲願を受け、悲願を実現したい気持ちで動いているのだと、歴史の一筋の道が見えた瞬間でした。大使は中国にしても、北朝鮮にしても、ロシアにしても大変難しい国であるという事で、この道が創れたら平和への道も創っていけるというお考えもお話して下さいました。私もいつもその様に考えています。世界が平和になれば、先祖の地があった所にも自由に行けると考え、取り組んでいます。パリにいらっしゃるユネスコの会長にアポイントメントを取って頂くご協力を、マケドニアの国連大使にお願いしたのでした。マケドニアの国連大使と共にユネスコの会長を訪ねました。その方は、何とイラン人の女性でした。ペルセポリスでいだきしん先生のコンサートを開催出来た事等をお話すると、大変喜んでいらっしゃいました。イラン人であれば、ペルセポリスでのコンサートがいかに困難であり、あり得ない事であるかという事をご存知でいらっしゃいます。私は、イラン人の方で良かったと希望を感じたのです。お話は受け容れて下さり、中国に話してみるとおっしゃって下さいました。パリから五女山への道が出来るならありがたいと、とても私は期待をしていました。マケドニアの国連大使に普段行かない様なレストランに連れて行って頂きました。日本で言えば、下町の食堂の様なレストランでした。とても美味しい魚料理を頂き、その時の事がとても印象に残っています。楽しかったのです。マケドニアの国連大使とも色々お話をさせて頂きましたが、大使から依頼された件は、私達には引き受ける事が出来ずにお断りさせて頂く事になったのです。

 時間の合間にモンマルトルの丘も行ってきました。私が大好きな辻邦生先生が住んでおられた家を見ました。

いだきしん先生にお会いした頃から、辻邦生先生のお話を聞いてきました。辻邦生先生の小説の中で「生きた言葉」を見つけ、その言葉を理解出来る人間となりたく、いだきしん先生は勤めていた老人ホームを辞めた、というお話がとても心に残っています。いだきしん先生は、生命の言葉をずっと探求してこられ、人間とは何かの答えを見出された御方であります。辻邦生先生の言葉の中で「生きた言葉」を見つけられる事も凄い事と私は感じたのです。そして、辻邦生先生が書かれた「樹の声 海の声」という小説を薦められ読み始めたのです。いだきしん先生から、自分が共感する所に赤い線を引くといいと教えて頂きました。赤い線を引いた所から自分の本音や気持ちが分かっていけるからと教えて頂きました。本を読みながら共感する所を赤い線で引いていくうちに、自分の気持ちを確認する事が出来ました。主人公が気持ちのままに生きていく所に線を引いていたのです。主人公は明治の時代に離婚をし、好きな人と結婚したのです。好きになった人はポーランド人でしたので、日本を離れ、ポーランドで生きる事を決断したのです。明治の時代の日本では、受け容れられず、大変な思いをし、気持ちのままに生きた女性の人生を描いたものでした。私も、気持ちのままに生きていきたい自分の気持ちがよく分かりました。いだきしん先生からも主人公は私に似ている感じがするとお聞きしていました。その事も自分を分かる手掛かりとなると感じ、夢中で読んだのです。いだきを始めて、いだきしん先生のコンサートを開催する様になったある時、辻邦生先生にコンサートのご案内のお手紙を書かせて頂いたのです。そして、ある日お電話をさせて頂きました。辻邦生先生は、すぐに手紙を書いた人間である事を分かって下さいました。「あなたね、あなたの手紙を読んで言葉がまるで違うので、この人には会わなければいけないと感じていたので、会いますよ。」とおっしゃって下さったのです。私は夢の様だと感じ、大変嬉しく、喜びあふれました。当時、学習院大学の教授をされておられましたので、学習院大学の一室で辻先生にお会いする事が叶ったのです。辻邦生先生に「樹の声 海の声」のお話といだきしん先生は辻邦生先生の小説をお読みになり「生きた言葉」を理解出来る人間になりたく老人ホームを辞められたお話もさせて頂きました。辻邦生先生は私に「そうそう『樹の声 海の声』の主人公はあなたにそっくりよ。」とおっしゃったのです。主人公は実在する人物だったのです。色々なお話をさせて頂く内に辻邦生先生は私の応援をして下さるという話になったのです。もし、私が本を書く事があれば推薦文を書きますよ、とまでおっしゃって下さったのです。大変嬉しい出会いでした。そして、その後開催しましたサントリーホールでのコンサートにお越し下さったのです。いだきしん先生のコンサートを開催していますと、普段は会えない様な御方にお会い出来たり、お話も出来ない様な御方とお話出来るという機会があります事は、本当にありがたい事と感謝します。まさか、辻邦生先生とお会い出来、お話までさせて頂き、私の本の推薦文まで書いて頂くとおっしゃって頂くとは、夢にも見る事のなかった出来事です。その後、私は本を書く気になり辻邦生先生に推薦文のお願いで再びお会いしに伺った事があります。その時はご自宅の近くの高輪ホテルでお会い致しました。明治の頃のヨーロッパ的な建物が残る高輪ホテルのラウンジにてお会いした事をよく覚えています。大変残念ながら、ご病気になられておられ、休養されておられたのです。学習院大学の教授の時とは、お顔の表情も風貌も変わっておられました。結局推薦文を書いて頂く事がないままに、お亡くなりになられてしまいました。とても悲しく、胸に残っておりますので、辻邦生先生のフランスでのお住まいを見た時には、とても胸が動き、様々な感情が生まれてきました。モンマルトルの丘は、いだきしん先生にお会いした頃、聞いたお話の中で出てきた名前です。私もいつかモンマルトルの丘に行ってみたいと感じていましたので、来る事が出来てよかったです。ヘミングウェイの御家もあり、私には文学の香りがする地に行けます事は、とても楽しく、豊かな時間を過ごす事が出来るのです。文学の香りに触れ、自分の内面の奥深くを辿り、自分のやりたい事が生まれてくるのです。

アポイントメントが終わり、帰る時には雨が降っていました。日本の雨と違い、静かで雨に濡れる感じがない不思議な雨と感じました。ホテルの周辺を歩いたり、ブランドのショップをのぞいたりとしながら残りの時間を過ごしました。何を話したのかは覚えていませんが、リッツカールトンのラウンジでコーヒーを頂きながら話した時の場面が心に残っているのです。未来に繋がる話が出来た時の場面は、生命の内に残っている事をいつも感じていました。私は、もう2度とパリには来たくないと感じていたのです。中東やアフリカに行く様になり、ヨーロッパとはまるで違う社会や生活状況を見、歴史の表と裏を見ている様な気持ちでした。私には、中東の方が馴染んできているのだと感じるパリでの滞在でした。パリからアルメニアへと向かいました。続く…。