サンクトペテルブルグの次はパリでのアポイントメントが待っていました。久しぶりにパリの空港に着きました。この度もリッツカールトンホテルに宿泊しました。以前来た時とは、私には違うホテルの様に感じました。チェックインする時の時間の長い事には、ほとほと疲れました。サービス業であるのに、お客様をこんなに待たせて平然とゆっくりとやっている状態が、私には異常に見えたのです。エチオピアやタンザニア、そしてレバノンをはじめ中東に行く様になり、特にレバノンでは、ホテルのチェックインも空港のチェックインも数分で済むのです。その手早さといったら見ていて気持ちが良い程無駄がなく、リズム感があり、リズムにのってどんどん作業をしていきますので、待っているとすら感じないのでした。その経験に慣れてしまって、パリに行った時にはスローモーションビデオを見ている様でした。なんでこんなに遅いのかと、同じ人間には思えない気持ちとなりました。40分位かかり、チェックインが済み、やっと部屋に入れる始末でした。部屋は、落ち着いて過ごしやすい部屋でありましたので、ありがたく感じていました。パリでは、マケドニアにてお会いしました、マケドニアの国連大使とお会いする約束がありました。また、もう一つユネスコの会長にもお会いするアポイントメントが取れていました。高句麗発祥の地、五女山にて「高句麗伝説」を開催したい気持ちがずっとあります。中国共産党の許可は下りても、実施する遼寧省の許可が下りずに断念しましたが、五女山にて「高句麗伝説」を開催したい夢は、あきらめきれずにずっと道を探し続けています。ある時は駐日タンザニア大使にお願いをしてみました。大使はとても私達に協力して下さいます。日本にいらっしゃる時は、時々食事に招いて下さったり、大使館によんで下さったり、色々なパーティがある度に招待して下さったりとお会いする機会が多かったです。私のやりたい事もご存知でいらっしゃいますので、相談をすれば協力する方向で色々お考え下さいます。五女山での「高句麗伝説」開催に向かい、ご相談させて頂いた時に、タンザニア政府から中国政府に手紙を送って下さる事になったのです。大変お気持ちが嬉しく、ありがたい気持ちで一杯でした。が、何ヶ月経っても中国政府からは何の返事もないという事を、大使はある日首をかしげて伝えてきました。外交文書で出していますので、返事が来ない事はあり得ない、とおっしゃいました。あり得ない事が起き、余程この件は困難であるのだという事を大使は察せられたのです。そして、五女山城は世界遺産に登録されユネスコが管理していますので、ユネスコから道を創ったらいい、とのご提案を頂きました。私の先祖が現在でいうと発祥が中国であり、最後の都が北朝鮮、そして国が滅んだ後日本とロシアに亡命した事をお話すると、大使は笑いながらおっしゃったのです。先祖もインターナショナルだから、あなたが世界中を歩いていくのも納得出来る、とおっしゃったのでした。そのお話を聞いた時に、私も生命の内で合点がいったのです。この様に動いていくのも、先祖の悲願を受け、悲願を実現したい気持ちで動いているのだと、歴史の一筋の道が見えた瞬間でした。大使は中国にしても、北朝鮮にしても、ロシアにしても大変難しい国であるという事で、この道が創れたら平和への道も創っていけるというお考えもお話して下さいました。私もいつもその様に考えています。世界が平和になれば、先祖の地があった所にも自由に行けると考え、取り組んでいます。パリにいらっしゃるユネスコの会長にアポイントメントを取って頂くご協力を、マケドニアの国連大使にお願いしたのでした。マケドニアの国連大使と共にユネスコの会長を訪ねました。その方は、何とイラン人の女性でした。ペルセポリスでいだきしん先生のコンサートを開催出来た事等をお話すると、大変喜んでいらっしゃいました。イラン人であれば、ペルセポリスでのコンサートがいかに困難であり、あり得ない事であるかという事をご存知でいらっしゃいます。私は、イラン人の方で良かったと希望を感じたのです。お話は受け容れて下さり、中国に話してみるとおっしゃって下さいました。パリから五女山への道が出来るならありがたいと、とても私は期待をしていました。マケドニアの国連大使に普段行かない様なレストランに連れて行って頂きました。日本で言えば、下町の食堂の様なレストランでした。とても美味しい魚料理を頂き、その時の事がとても印象に残っています。楽しかったのです。マケドニアの国連大使とも色々お話をさせて頂きましたが、大使から依頼された件は、私達には引き受ける事が出来ずにお断りさせて頂く事になったのです。






