年が明け2008年は、1月の末に念願のロシア、サンクトペテルブルグへ行く予定が組まれていました。サンクトペテルブルグからパリ、そしてアルメニアへ行くスケジュールでした。最も寒い時期にロシアへ行く旅ですので、暖かい衣類を準備しようと考え、随分と服を探しました。ロシアへの道は、スムーズにはいかず、幾つかの困難がありました。最初にブルガリアのトルノボ市から紹介されたロシアの市に何度もお手紙を書いたり、連絡をしましたが、一向にお返事が来なかったのです。トルノボ市の紹介でありましたので、通常は返事が来ないという事はないと捉えていましたが、この時はこちらから何度も連絡をしても、一向に返事が来る事はなかったのです。やむなく、この道を追いかける事はやめました。次にビトラの市長さんからご紹介頂きました方が、サンクトペテルブルグにあるドストエフスキー博物館の館長でした。私は、とても嬉しく、天に昇る様でした。このドストエフスキー博物館の館長のアポイントメントがとれる前の事です。私はロシアに行く為に、衣類を揃え始めたのです。いつも未来の光景が見え、見えたまま実行すると道が拓かれる事を経験し生きてきました私は、ロシアへは黒のダウンのロングコートを着ていく姿ばかりが見えていました。年末に行きました中国の町でほとんどの方が着ていたのは黒のダウンのロングコートでした。あれだけ寒い地であればダウンのロングコートは必要であるとよく分かります。私もダウンのロングコートが欲しいと感じ、日本に帰り色々なブランドに問い合わせたり、実際に店に行き探しましたが、残念でしたが、今期の冬はロングはないと、どの店でも言われたのでした。結局、見えたままのロングコートは購入出来ずにいました。ロシア行きも決まりそうで決まらない状態が続きました。そんなある日、表参道を歩いていた時にウィンドウから見たのが黒のロングコートだったのです。私はすぐにそのブティックに飛び込み、これを試着させて下さいと言ったのです。そのコートこそ夢に見たコートだったのです。やっと出会えたと感じ、試着室で私は、これで「ロシア行きは決まり」と声を出して叫んでいたのです。対応してくれた店員さんは、ロシア行きは決まりという意味が分からなかったと思いますが「ロシアに行かれるのですか」とすぐにおっしゃったので「そうです」と答えたのです。試着しなくてもこのコートを購入する事は決まっていましたが、一応試着はしたのです。当然買う事は決めていました。これを下さいと言うと、店員さんは大喜びでした。「さっきスタッフが皆で喜んでいたのです。あのコートがぴったりの人が来たと皆で本当に喜んだのです。このコートは世界で一枚しかないと聞きました。似合う方に着て頂いて本当に良かったと皆で胸を撫で下ろしていました。」とお世辞でもない、本当にそう感じている事が分かる表現に私も嬉しくなったのです。これでロシア行きは決まると叫んだ通り、その後すぐにサンクトペテルブルグにあるドストエフスキー博物館の館長とのアポイントメントが決定したのでした。いつも準備が出来ると行ける様になっていくのです。ところが、そのコートはおしゃれコートで、厳寒の1月の末にロシアに着ていける様なコートではなかったのです。購入したものの、残念ですが着ていけないと判断し、今まで持っているコートを準備し旅の支度をしていました。この時は、何を着てもぴったりとこないのです。何枚も何枚も服を着替えては鏡を見ていました。自分一人では決められず、先生の娘さんの笑美ちゃんと愛ちゃんに見てもらい、何度も着てみたのですが、何を着ても持っていく気がしない状態でした。先生の娘さん達は「今日はもう決まらないから、また明日にしましょう。」と迷いきっている私に言ってくれたのです。私は迷う人間ではない事を知っているからです。何でも即断即決するのですが、迷っている時はおかしい時なのです。私もこれ以上無理だと感じ、その日は休む事にしました。翌朝、目が覚めると体が熱く、しんどく、だるくてとても起きられる状態ではありませんでした。何か悪い病気にかかっている感じがしました。熱を測れば40度の高熱です。いつもであれば、熱があっても外に出て予定通り仕事をしてきました。以前、40度の高熱があった時に講演会の日でしたので、フラフラな状態で身支度をし、化粧をし、講演会場には車に乗せてもらって連れていって頂きました。講演会にて「こんにちは」という第一声を発した時、自分の状態がこれだけ酷かったかと初めて自覚し、お客様に申し訳ないと心からお詫びしたい気持ちで一杯でした。とても聞ける様な声ではなかったのです。かすれてガラガラで、恐らく話はきちんと伝わらない声だったと自分でも感じています。一言「申し訳ございません」とお詫びはさせて頂きましたが、この様な事は2度としてはいけないと、とても反省しました。私は熱があっても、どこかが具合が悪くても、決まった事を変更するという意識がなくずっと仕事をしてきました。この時初めて考えなければいけないという事に気づいたのでした。

世界伝説 第87弾
そんな私が、いつもでしたら行く事しか考えないのですが、その時は体の内から行けないとはっきり感じていたのです。そして、いだきしん先生にお電話をさせて頂きました。高熱があって苦しい事をお伝えし、休む様にとおっしゃって頂きました。私は、この度の旅行を変更したいという事を伝えたくてお電話をしたのですが、変更する事をかつて考えた事もなく、した事もないので、いだきしん先生は私が変更する為に電話しているとは考えられなかったのです。私は、この度は変更したいと、とても行けない状態である事を申し上げました。先生は、それでは変更してもいいとおっしゃって下さり、電話を切りました。すぐに変更の連絡をし始めました。何という事かと、あれ程願い続けてきたロシア行きが自分の体調の悪さで行けなくなるとは、夢にも思いませんでした。こんな事が起こるとは、自分にとっては予想外な事でした。本音で行きたいと考えていたロシアがこの様になるとは、一体どの様な意味があるのかと自分の内面を整理する事で必死でした。どんなに行きたくてもこの体の状態では、とても行く事が出来ない事だけは分かっていましたので、変更の手続きを全て終え、あとは休み、回復する様にと過ごすばかりでした。1週間程起き上がる事は出来ませんでした。丁度、旅程通りロシア、パリ、アルメニアの旅が終わる頃、やっと起き上がる様になったのです。長い間休んでいましたので、ちょっと起き上がるだけでふらついてしまい、またすぐに臥せってしまうという状態になっていました。こんなに長い間休んでいた事はありません。普段はスケジュールが詰まっていますので、働き続けています。この時は旅に行っている予定でしたので、その期間丸々休んでいたのです。そんな時に、いだきしん先生と電話で話す機会があった時に、いだきしん先生が一言、まるで入院患者みたいだねとおっしゃったのです。その言葉がずしんと胸に響きました。こうしていたら、入院患者と同じなのだと自覚したのです。それから、外に出て行き、活動を始めました。外は寒く、強い風が吹くと体は凍え、ふらふらした状態ですので、不安になったり倒れそうになったりします。が、入院患者の様だという言葉が心にあり、慣れなければいけないと訓練する気持ちで外に行ったのです。街頭でチラシを配布していたのです。その内、寒さにも慣れ、フラフラする事も通り抜けていける様になり、やっと今までの様に動ける体になりました。この間、何故ロシアに行けなかったかと自分の内面をずっと整理していました。理由は分かりませんでした。ただ、ロシアへ行くという事はこれからも大きな壁が立ち塞がっていたり、障害が多いという事を感じ、覚悟を決めたのです。何があっても別れた同胞が亡命した地であるロシアへ行き、コンサートを開催したい気持ちを実現すると心に決めたのです。次は必ず行ける様にと心身整える事に努めました。次は、3月の下旬と決めていました。ありがたい事に、ロシア、パリ、アルメニアでの決まっていたアポイントメントを取った方々は、お大事にというメッセージを下さり、変更する事を問題なく受け容れて下さいました。変更は1回だけで、2度はしないと心決め、次は必ず行ける様にと必死だったのです。3月に入り、次はアルメニアが日本の外務省によると退避勧告が出ていました。デモによるものだと知りました。私は、また行けなくなるのかと不安になりました。恐くもあったのです。いだきしん先生にその事をお伝えし、どうしましょうかとご相談させて頂きました。いだきしん先生は行くよ、とおっしゃいました。アルメニアに着く頃には解除されているから、とおっしゃったのです。私は、行くと決め、覚悟も決め、兎に角行ける様にと行く為の準備をしました。3月下旬でしたので、丁度お告げで購入したおしゃれコートが着ていける季節だったのです。まさか、このコートを買ったので春に延期になったとは思いませんが、いつも自分の場合は、見えた事が現実になるという事を経験していますので、このコートを買った時点では、このコートが着れる季節に行く様になっていたのかと自分の中では考えたりもしたのです。心配と不安の中でも行ける様に行ける様にと準備出来ました日々は、私にとっては良い訓練の連続でした。やっと3月の下旬に今度は無事に日本を発ち、ロシア、サンクトペテルブルグへと向かう事が出来たのです。続く…。