世界伝説 第84弾

北京での辛い「高句麗伝説」コンサートを経て、10月は五女山では紅葉が最も美しいと聞く10日に五女山に行く予定をしていました。撮影が目的でした。行く前日、いだきしん先生が体の不調により、この度の旅は見合わせたいという内容のお電話を下さいました。大変ショックを受けました。いだきしん先生のお体が、それ程具合が悪いという事は、余程何か大変な事が起こっていると感じたショックもあると同時に、楽しみに、いそいそとスーツケースに荷造りをしていた時でしたので、また行けなくなったという無念な思いもありました。過去にも何度も荷造りをしている時に、この度の旅は中止という連絡が入ったのです。何故いつも直前になると中止になるのかと、この巡りを何とか変えたいといつも願っていました。それは高句麗が関係するという事が次第に分かってきました。また、中国の法律によって、先祖の地であっても外国人でありますので入れないという事を後から知りました。入れない所を何とか連れて行って下さろうとし、現地の人が動いて下さっていたのです。ある時は、テレビクルーの一員となり、撮影目的で来たと装ってほしいと言われました。中国人らしい服装をし、地味にして来てほしいと言われました。私は、デパートに行き中国人らしい洋服を探しましたが、中々見つけられませんでした。何故こんな事をしなければいけないのかと、虚しくなり、探す事を止めました。そして、もし日本人と分かったらどうなるのか、と代理人に尋ねたのです。代理人は「拘束されます。だから、ばれない様にテレビクルーの一員を装うという事を考えたのです」とおっしゃいました。私はそこまでして行きたいとは感じず、一度こちらから直前になりキャンセルさせて頂いた事もありました。法律違反という事はとてもする気にはなりませんでした。また、やはり法律によって突然、この度は来たら拘束される様な事になると連絡が入る事もありました。その度に、心の中で若光王様は1300年も待ってきたのだから、1年や2年、たとえ10年でも20年でも大した事はないと言い聞かせるのでした。そして、東京のカフェで五女山ケーキを作ったり、丸都山城と名付けたお菓子を作ったりし、ボランティアの仲間と一緒に「高句麗の旅」というサロンを開催しました。本来であれば、高句麗の地に行く予定であった日に集い、今日は五女山、明日は丸都山城といい、皆で私が作ったお菓子を食べながら話し合ったのでした。何度この会を開催したか分かりません。この度は、いだきしん先生のお体の具合が悪いという事で、そんな事よりもお体の方が良くなる事を祈り、気持ちを切り替えました。旅のキャンセルもしました。突然日が空きましたので、一緒に行く予定のメンバーといだきしん先生とお話をする機会がありました。そして、その夜いだきしん先生は体が回復してきたので、今からもう一度旅の計画を変更し行けるとのお話があったのです。私は急いで中国のガイドさんに電話をし、1日遅れで旅に行ける事になったのでホテルの手配をしてほしいと喜び頼みました。そして翌日、五女山へと旅立ったのです。この度は、当初予定していた丸都山城へ行く事は取り止めと致しました。一夜明け、突然五女山に行ける事になり、嬉しくて嬉しくて胸ははちきれんばかりでした。そして、昨年と同じ瀋陽の空港から高速道路で7時間位車に乗り、秋の田園風景を眺めながら五女山へと向かったのです。信じられない気持ちでした。そして、いつもの様に「桓仁県」という標識が立つ所に行くと深遠なる世界が広がります。私は、思わず「五女山」と叫ぶと、ガイドさんはいつもの様に「違います」と答えるのでした。五女山が見える所で車を降り、大喜びし、写真撮影をするのも昨年と同じです。翌日、五女山へ登りました。

1年で最も美しい紅葉と聞く日でありましたので、ガイドさんがおっしゃる通り、とても美しい五女山の秋でした。昨年は魂が喜び迎えてくれました。この時は、魂は蘇り光となって輝いていますので、空間に共にあるという状態で、五女山の地に眠る魂はいないと感じました。全ての魂は蘇ったのだと感じる五女山でした。

とても明るく、自由で光り輝いています。そして、未来へ未来へと向かうエネルギーが満ちてきます。これからは、高句麗魂は私と共にあって下さるという事が体で分かる五女山での尊い時でした。いつもの様に五女山を下りて、夕方、朝鮮料理のお店で昼食をとるのです。とても美味しく感じる食事です。翌日になると、いだきしん先生が身に受けておられた苦しみや重荷は、中国という国の体制かと私は感じました。この時999段の階段の入り口まで行く車で感じたのですが、駐車場から政府の車に乗り換えます。途中、五女山がよく見える所に車を止め、写真撮影をしていました。車には韓国の考古学者も同乗していました。その先生は、沢山写真を撮っておられました。運転手が狂った様に叫び始め「早く乗ってくれ」と言っているのが中国語で言っている言葉であっても伝わってきました。私達は急いで車に乗り込みましたが、その後、狂った様に猛スピードで運転し始めたのです。999段の階段の入り口まで来た時、時間を計られている事が分かりました。遅れると首をきられるのだという事がよく分かりました。ガイドさんに確認した時、ガイドさんはその様に説明してくれました。中国では一族郎党養っていますので、仕事を失ったら皆が生きていけなくなってしまうという恐怖がある事を、その運転手さんの生命から甚く感じたのです。それは、全てにおいてその様な仕組みになっている事を、この度は身に受ける苦しみから感じました。この様な状態全てを、いだきしん先生が身に受け、苦しんでおられたのだと感じ、涙がこぼれます。この時の旅で、ふと1998年に五女山を眺めた湖の畔に行きたくなり、ガイドさんに話をしました。色々な所に連れて行って頂きましたが、私が行きたいと願う所ではないのでした。最後にガイドさんが「五女山が一番よく見える所に行きましょう」とおっしゃり連れて行って下さいました。車を降り、本来であれば五女山を眺める方向に歩いていくはずが、私は五女山に背を向け、反対方向に歩いていったのです。胸の内は涙で一杯でした。本当は、五女山の方に行きたかったのですが、五女山を真正面に見る事が出来なかったのです。が、胸の内から「何をやっているのか。ここまで来て。」と聞こえると同時に我に返り、五女山の方向へと目を向けたのです。瞬間、五女山が眼前に迫りきたのです。

涙がほとばしり溢れました。歴史の悲しみを感じました。言葉に表し尽くせぬ悲しみを感じ、涙ばかりが込み上げました。この時の経験を「高句麗の父」という詩に書きました。いだきしん先生にこの経験をお話させて頂いた時、先生は「自分と重なる」とおっしゃったのです。真にと深く頷き、頭を垂れ涙があふれました。ずっと人類の裏となり生き、人類を支えながらも表に出る事はない、いだきしん先生の存在と歴史の悲しみが重なりました。歴史の真実が表に現わる時、世界は平和になると見えました。胸の内は涙一杯のまま、五女山を後にしました。私は、2度と五女山に来る事がないとしても、この事を生涯忘れる事はないと心の中で誓いました。歴史の真実現わる時を創る為に生きていくと、お腹の底から意志が立ちました。「歴史の悲しみ」、「高句麗の父」、いだきしん先生の存在現わる時、世界は平和になると見えました。続く…。