ヨルダンから帰ってすぐに9月は中国、北京紫禁城ホールにての「高句麗伝説」コンサート開催が決まっていました。北京と高句麗発祥の地、五女山がある桓仁県での開催許可を中国共産党文化部から頂いたのです。ところが、遼寧省の方は許可は出ても実施はできないと断られ、実施不可能となりました。これが、シリア、アレッポにて東明王様が私に告げたメッセージでした。そしてシリアで「高句麗伝説」100回記念コンサートを開催させて頂いたのです。既にシリアでの100回記念は、いだきしん先生がお決めになられておられましたが、私はその前に五女山での100回記念コンサートを申請していたのです。ところが実施不可という事で返事が来たのでした。東明王様からメッセージがあったので、私は覚悟はできていましたので、止む無く受け容れる事にしたのです。二か所での開催を諦めることはできず、北京でだけは開催したいと北京での開催実現に向け依頼していたのです。開催一週間位前から、北京から送ってくるポスターやチラシの構成がおかしいと感じ始めました。私の顔や名前がなくなっていたり、高句麗という文字がなくなっているのです。何度も抗議をしましたが、こちらが望む様な返事が来ない事に、何か異常な事が起こっている様な胸騒ぎがし始めました。日本ではきちんとやってほしい事を伝え続けていました。とても嫌な予感がし、嫌な感じで中国へと向かったのです。が、中国大陸に降り立った時は、先祖があった大陸の地です。生命は躍動し涙まで込み上げてくるのでした。空港に迎えに来てくれていた方は、私の代理人の会社の社員でした。朝鮮族の人でした。快く迎えて下さいました。そして、五女山で朝鮮族が集合し、「高句麗伝説」をしようという話が盛り上がったのでした。彼女は、政府が高句麗の名を出す事を警戒している事は知らないようでした。私はこんな話ができるだけでも嬉しい事と感じていたのです。私の代理人は迎えに来る事もなく、ホテルに着いても顔を出さなかったのです。おかしいと感じながらも、その都度止む無い理由を述べていたので、私も止む無いと受け止めたのですが、お腹の中は腑に落ちなくて、とても気持ちが悪くイライラしてしまうのです。次の日も挨拶に来ないのです。通関に手間取っているとの事でしたので、通関は頑張って頂きたい気持ちで止む無い事とその時も受け止めました。が、とても気分が悪かったのです。私は「高句麗伝説」の始めに中国語で挨拶ができたらいいとふと感じて、その代理人の会社の人に相談したのですが、素っ気なく無視されてしまいました。全く興味がない状態でした。他の国では、少しでもその国の言葉を使うと皆様大変喜んで下さいますが、中国は関心がないのだと残念に感じました。何か変な感じがずっとありました。「高句麗伝説」に向かう前はいつもイライラする感じを紙に書いて内面を整理し、極力健やかにと努めましたが、すぐに又イライラする感じに襲われ、とても精神的に辛い状態でした。「高句麗伝説」のパンフレットに「高句麗」という文字が全部抜かれていたという事を知りました。が、何も事情を知らない担当者に間違っている事を指摘し、再び入れてもらって印刷をしたと、それを担当したスタッフから聞きました。コンサートのパンフレットには「高句麗」という文字は入ったのです。が、街に貼られているポスターには全部抜かれていたのでした。そしてこのコンサートは日中国交35周年記念の一環とし開催という事で許可されていましたので、中国のHAYAというバンドとの共演がありました。ポスターはHAYAのバンドの方が大きく載っていたのです。何か私はやり切れない気持ちで一杯となりました。「高句麗伝説」を開催しに来たのに、隠されていく感じがとても辛く感じたのです。私の代理人にやっと会った時、彼は別人の様になっていました。私が何を話しても、もう中国でのコンサート展開の話やカフェ展開の話にはまるで乗ってこなくなりました。それでも予定していた北京オリンピックに向けて新しく作られたショッピングモールにて下見には行ったのですが、まるで乗り気でない状態でやれる様にはとても感じられず、又、私も「高句麗伝説」開催に向かい不愉快な事ばかりが続きましたので、カフェの事は考えられなくなっていたのです。リハーサルの時も不愉快でした。そして、本番の時は戦いに挑む気持ちとなっていました。「捕まえるなら捕まえてみろ」と心の中で言っていたのです。何も事情は知りませんが、空気からそう感じたのです。後から、公安が張り付いて少しでも都合の悪い表現をしたら拘束するつもりであった事も知りました。そしてかなり後からですが、HAYAのバンドのドラマーが日本の私が経営するカフェに私を訪ねて来た事がありました。

世界伝説 第83弾
彼は、あの日公安が見張りに来、188人以上入ったら私の代理人を逮捕すると、死刑にすると言われていたという事を私に伝えに来ました。死刑にならなくて良かったと何度も言ったのです。この話を聞き、私の代理人の表情や態度がおかしかった事の理由が分かりました。「高句麗伝説」が終わった時、私が挨拶に行くと、血の気が引いていたのです。まるで別人の様になってしまった事に戸惑うばかりでした。「高句麗伝説」本番は、常に緊張と管理、監視の中で行なわれましたので、気が抜けない状態でした。始まればその様なことを気にしてはいませんでしたので、思いっ切り表現し、それが故に「捕まえるなら捕まえてみろ」という気持ちが生まれたのでした。HAYAとのバンドの共演の時に、私は「宮廷の恋」の詩を詠みました。とても切なく悲しい演奏をしてくれましたが、私には心が通い合えない苦しみがありました。とても悲しい事と感じる事が多かった北京での「高句麗伝説」です。「高句麗伝説」が終わり、私といだきしん先生は車に乗せて頂き、打ち上げの夕食会に行く事となっていました。北京の市内から外れ、建物もない暗い道を車が走るのです。どこに行くのかと物凄い不安な気持ちになりました。このままどこかに拘束されてしまうのかとも感じました。その時、暗闇の中に高句麗の使者を見たのです。秘密の書を携え、生命賭け敵陣に入り込み任務を遂行する姿です。生命賭けの姿は美しく、敵は見えないと感じました。その姿を見たので、私は暗闇の中でどこに行くか分からない不安がなくなったのです。そして「どの様になっても私は必ず勝つ」という言葉が生まれていました。実際は郊外のレストランに連れて行って頂いたのです。そこでも代理人は血の気が引いた顔で、暗く会話もなく、ただスタッフに食事をふるまうだけの会でした。何てつまらない寂しい会かと、形ばかりの会をする為にここまで来た事はとても虚しい事でした。翌日、私達のスタッフから聞いた事ですが、「高句麗伝説」が終わり、機材を片付け、撤収する時に、ホールの人が狂った様に怒り出し電源を全部切ってしまったとの事です。そして片づけはできなくなり、そのまま置いたままにし、翌朝出直し、片付け、撤退をしたとの報告を受けました。管理された社会では、自由な表現は気が狂う程恐ろしいものだという事をその話から聞きました。自分も、本番中誰が気が狂ってもおかしくない様な感じがして、恐怖を感じていました。が、本番はもう大いなる存在と完全一体となり、来るなら来いという気でいましたので、通り抜ける事ができたのです。とても悲しく切ない北京での「高句麗伝説」でした。北京を発つ時、いだきしん先生が空港のラウンジで、「どの様であっても台風の目は生まれた」とおっしゃったのです。時間の問題で中国全土に広がっていくとおっしゃったのです。私は拘束されるか否かの危険な状況を感じながらの「高句麗伝説」が無事にできました事、そしていずれ生まれた芽が中国全土に広がっていくなら、ここでやれてよかったと唯一の心の慰めとなったのです。後日、日本で代理人を紹介してくれた人が私を訪ねて来ました。北京の代理人が高麗さんには本当に悪い事をしたと、すごく申し訳ない気持ちでいますと伝えてくれました。私は何も言えずに、「はい」としか言えなかったのです。その事をいだきしん先生にお伝えした時、いだきしん先生は「人間だったら悪いと思わない人はいないよ」と一言おっしゃったのです。せめて悪いと感じていた事は救いとなりました。主旨に賛同し、喜び協力して下さり、私の代理人とし遼寧省から呼び出しがあれば北京から遼寧省まで行って下さり、色々尽くして下さったのです。最後があの北京の夜では余りに悲しい事と感じていたのです。体制の中で生きるという事は人間性を失わざるを得ないという事を身に沁み感じ、とても心辛い事です。彼は「高麗さんは中国政府内では有名人です」と言っていました。どの部署に行っても、高麗恵子ファイルがあったという事です。とてもマークされているので気を付けないといけないという事も最後には言っていたのです。これからの中国の動きを考える時が来ました。続く…。