山田町に再び行く時が来ました。早めにホテルを出、準備万端に向かいましたが、早めに到着したにも拘わらず到着した時には長蛇の列が並んでいました。大変驚きました。コーヒーの炊き出しを待っている人が並んでいて下さったのです。私達は急いで車から荷物を降ろし、コーヒーを淹れる支度をし、コーヒーを淹れ始めました。淹れても淹れても足りず、ずっとコーヒーを淹れっぱなしでした。長蛇の列はずっと続きます。この時は2箇所でコーヒーの炊き出しをする予定でいました。どんなにコーヒーを淹れても列が絶えず続いていきますので、次のコーヒーを淹れる所へ行かなければならない時間が近づくにつれ、どうしたらいいものかと気が急いてしまいました。並んで待って下さる方々を置いて次へ行く訳にはいきません。かと言って次でお待ちの方もいらっしゃると考えると、本当にどうしていいのかと心の中で考えながらも、一生懸命コーヒーを淹れ続けました。すると突然雨が降ってきたのです。それも強い雨となり、並んでいた方々はその場から離れて行ったのです。ちょうど次の場所へ行く時間でした。何という働きでしょうかと大いなる働きよりないと感動し、感謝し、次は室内の炊き出し場所に入り、コーヒーを淹れました。こちらは既に沢山の方が並ぶという状況ではなくなっていました。役場の中でもありましたので、コーヒーを淹れてしばらくして、私は役場の1階から5階まで各部屋をコーヒーを持って回り、お一人お一人にコーヒーをお渡しし始めました。お盆に沢山の紙コップに入れたコーヒーを運んでいると楽しくて、どなたにお会いしても心から挨拶が出来ました。一緒に同行したボランティアスタッフの方は、冗談で、役場乗っ取り開始と笑って私が役場を回る姿を眺めていました。村づくりや国創りが出来る躍動を感じていました。ちょうど5階の町長室があるフロアに行った時に、先日町長とのアポイントメントをダブルブッキングしてミスした秘書と思われる方がいらっしゃいました。私はご挨拶をさせて戴き、せっかく東京から来たのですが、突然アポがなくなりとても残念でしたとお伝え致しました。その方は一回も顔を上げず、下を向きっぱなしでした。お言葉もありませんでした。もしかしたら少し精神が大変になっているのかと感じました。これだけの災害が起こり、沢山の方がお亡くなりになり大変な状態で皆様お仕事をされている事はひしと感じました。コーヒーをお渡しし、その場は離れましたが、再び町長さんとのアポイントメントは取ってほしいという事だけはお伝えして参りました。一通り全てのフロアの人にコーヒーをお配りし、ふと福利厚生課の部屋の衝立がしてある向こうで女性達にコーヒーをお出ししていました。7人の女性達と一緒にコーヒーを頂いている時に、お一人お一人自分の苦しみをお話しされ始めたのです。皆様、身内が亡くなり、家も流されていました。役場で働いていらっしゃいましたので、まさかお家が流されているとは思わなかったのですが、皆様、家が流されていてもずっと働き続けてこられた事に頭が下がります。とても肩が重くて首が回らない程苦しいとお話しされてきました。指圧したりお灸すえたり鍼をしたりとしても一向に良くならないと嘆いておられました。時々、お坊さんが供養にお見えになるけれど、それも全然良くならなくてとおっしゃいました。山田町は役場が遺体安置所になったと聞きました。自分達が働いている場が遺体安置所になってしまって…とこんな事態だから何も言えないけど、とても辛いとぽつりぽつりとお話しされました。

世界伝説 第122弾
私は自分がいだきしん先生に出会う前、肩が重く首が回らず、毎日指圧、マッサージ、鍼、鍼灸をしていました。が、30分位頭が上がるのですが、また頭が垂れてしまう程苦しかったのです。宗教も熱心に通っていましたが、祈ってもお祓いを受けても断食をしても自分の負った業というものは無くなる事がない苦しみに、ますます苦悩が深くなっていったのでした。いだきしん先生に出会った時、ピアノの即興演奏の一音を聞いた時、何事が起こったかと天地が引っくり返る程の衝撃を受けました。ピアノの音は心臓に響き、体の中にどんどん入り込んでくるのです。そして、固い扉が開き、今まで溜めてきた感情や思い、言うに言われぬ苦しみ、言葉にならない様々な感覚から何から溢れ出てきてはなくなっていったのです。そして、幼児期の男性に乱暴されるという嫌な事をいだきしん先生が受け容れて下さり、自分では忘れていた事であったのに、先生の方からその様な事があったとおっしゃった事には大変驚きました。忘れていましたので、何度も否定しましたが、私の心臓が男の人が怖くて震えているとおっしゃった言葉には涙が溢れ出たのです。子供の頃から理由なく男の人が怖いと感じていました。頭では怖くないと思っても、心臓が震えるのでした。そして体が硬直していくのです。外に出れば痴漢に遭う事が続くのでした。より男性が怖くなり嫌になっていく悪循環の繰り返しでした。初めてお会いしたいだきしん先生にその事を受け容れて頂き、涙ばかりが溢れ1時間号泣してしまったのです。その後3日熱が出て、目が覚める事がありませんでした。3日後に目が覚めた時、肩の荷が取れ、首は重荷がなくなり動く様になり、身は軽く生命の内に新しい風が吹いていたのです。私は、生まれ変わったと感じました。母に「お母さん、肩の荷が下りた。私は生まれ変わった」と嬉しくて叫んだのでした。母は喜んでくれると思いましたが、首をうなだれ落胆していました。何で私は生まれ変わった様に軽くなったのに、母は落胆しているのかと戸惑ってしまいました。母は私が40度の高熱を出し3日間目が覚めなかったので、お医者さんに連れて行ってくれたそうです。脳の病気を懸念され、今度目が覚めた時に十分気を付けるように言われたという事を話しました。母は、私が頭がおかしくなったのだと思い落胆したのだという事がわかりました。私は母に本当に良くなったのと、元気良く言いました。誰が何と言ってもこの感覚は生まれてから経験した事のない程楽であり、生きていると感じられる感覚だったのです。その日から、二度と男性に対して恐怖を感じる事もなく痴漢に遭う事もなくなりました。そして長年ずっと苦しんでいた心臓の苦しみからも解放されました。自分の内にあるものが解かれると、巡りが変わり、環境が変わっていく事を生まれて初めて経験しました。自分の内面が変わる事が全ての解決と分かりました。この話はいつも講演会の時に必ずさせて戴く経験談です。この時、7人の女性に数分でこの話を一気にしたのでした。自分でも何をどの様に話したかは覚えていないのです。無我夢中で話したのです。話し終わった時、7人の女性は立ち上がっていました。そして、「山田町でコンサートをしてほしい」と叫んでいたのです。そして、女性達は私を連れて役場の色々な部署に案内しました。会う人会う人に、この人の話すコンサートを山田町でしてほしいとお話ししていました。最後に伺った部署の男性が、最終決定者でした。涙で潤む赤くなった瞳で、「犠牲者追悼慰霊コンサート」と叫ぶように宣言されたのです。そして山田町の国連のテントにて開催してほしいとの依頼を受けました。私はその場でいだきしん先生にお電話をさせて戴きました。いだきしん先生は、即答で行きますと答えて下さいました。山田町での犠牲者追悼慰霊コンサート開催が決定しました。夢を見ている様な、宙を浮いている様なとても不思議な気持ちとなりました。一気に山田町でコンサートを開催出来る事になったのです。最終決定者の男性は、お母様を津波で亡くされたという事を女性達から聞きました。涙に潤む瞳がずっと心にありましたので、人間は言葉では語らずとも瞳は悲しみを語っているのだという事がよく分かりました。その瞳を思い出すだけで今でも涙が込み上げます。次に来る時はいだきしん先生のコンサート、と夢の様な気持ちでその日の山田町での活動は終わりました。続く…。