世界伝説 第121弾

東京に帰り、再び私は復興支援の道を作る為に寝ても覚めても人探しをし続け、情報探しをしていました。ある時、テレビを見ていた時に、ふとこのお坊さんは普通のお坊さんではないと感じた僧侶が映っていました。お寺を解放し、避難所になっていました。この方に会いに行ってみたい気持ちが生まれました。また、宮古副市長さんともアポイントメントが取れました。またある時、新聞にてイラン大使館の女性達が岩手県の山田町に炊き出しに行ったというニュースを読みました。人が行けないような僻地に炊き出しに行きたいと申し出、陸の孤島と言われている山田町をご紹介されたと書いてありました。イラン大使館とは長い間お付き合いがあります。大使もよく知っています。私の「高句麗伝説」コンサートにお越し下さり、大変感動して下さいました。それ以来、時々色々な催しにご招待下さったり、食事に招いて下さったりしました。イラン大使館の女性の方々が陸の孤島といわれる山田町まで行かれたのかと考えるとありがたくて涙があふれました。心から御礼を申し上げたく大使館に連絡をとったのです。そして、もし宜しければ山田町のどなたかご紹介頂ける方がいたらありがたいとお願いをしてみました。大使は山田町の町長さんをご紹介下さいました。早速アポイントメントを取らせて頂き、お会いする日が決まりました。宮古から山田町に行く予定を組んだのです。再び東京から岩手県へと出発しました。盛岡に着いた時に、約束した山田町の町長さんとのアポイントメントがなくなったとの連絡を受けたのです。秘書の間違いで町長さんはその日は山田町にいないという連絡だったのです。折角岩手県まで来て…と目の前が真っ暗になりがっかりました。が、翌日はまず予定通り宮古へと向かい、宮古の副市長さんとのアポイントメントに伺いました。宮古の副市長さんとは表面的なお話で終わってしまいました。それでも、この様な大変な中をお会い頂けます事はありがたく感謝しています。自分の力不足で中々道を作れない事に落ち込む事もありますが、やり続けるよりないと気を取り直し、また向かっていくのでした。宮古から本来であれば山田町の町長さんに会う予定でしたが、アポイントメントが流れましたので、どうしたものかと考えましたが、私は山田町へ行ってみたい気持ちで会う予定はなくなっても山田町へは向かったのです。道もなくなっていますし、ガソリンスタンドもないという事を事前に聞いていましたので、ガソリンを満タンにし向かいました。ここでも言っては申し訳ない事でしたが、見渡す限り瓦礫の山でした。ふと、先日テレビで見たお坊さんは山田町にあるお寺だったと思い出しました。お寺の名前だけを知っていました。道もなくなっていますし、カーナビにいれても、カーナビが案内した所は瓦礫の山のど真ん中でした。ここからどうやって探すか検討がつきませんでした。車を降り、山の方に向かい歩きはじめました。途中、歩いている女性にお寺の名前を言い、道順を教えて頂きました。教えて頂いた道順は山の中でした。お墓が倒れていたり、木が倒れていたり、山の中も大変な状態となっていました。歩きながら不安になりましたが、もう行くよりない状況でしたので、教えて頂いた通りに歩き続けました。やっと一軒の家を見つけました。お寺であると分かりました。インターホンを鳴らしても、何の応答もありません。声をかけても全く応答がありません。人がいる気配がなかったのです。ここまで来てどなたもいらっしゃらないという事もがっかりしましたが、私は急いでメモに用件を書き、名刺と共に郵便受けの中に入れてきました。またもや空振りとなり、残念な気持ちで山を下り、車に乗り盛岡へと帰ったのでした。

東京に帰り、イラン大使に山田町の町長さんとのアポイントメントは向こうのミスでなくなったという事をご報告させて戴きました。大使はイラン大使館から申し出たアポイントメントがその様な結果になったという事が信じられない事だとおっしゃりながら、大変申し訳なかったとお詫びを言って下さるのです。私は日本人とし恥ずかしいと感じ、何とか決着をつけなければいけないと考え始めました。そして、山田町の町長さんの秘書に連絡をしたりしましたが、中々埒が明かない状態でした。ある時ふと、山田町にコーヒーの炊き出しに行ってみたい気持ちになり、役場に電話しました。コーヒーの炊き出しをしたいと伝えると担当部署に電話がまわりました。お電話に出た方にその旨をお話させて戴きました。中々話が通じず、私からすると心に残る対応だったのです。不快感として残ったのでした。皆さん大変な状況にあり精神が大変になっているのだと考えれば理解が出来ますが、普通であればこの様な対応を出来るのかと首を傾げる様な対応だったのです。中々道は拓けません。時々、東京や京都にいる時、自分も鬱になってしまう事もありました。それでもやらなければ道は拓けないのだという事だけ分かっていますので、私は人に電話をする事をやめられないのでした。がっかりする事があっても、また次々と電話をし始めたのでした。そんなある日、山田町からお電話がありました。前回私が不愉快に感じた方からでした。今度は打って変わって「高麗さん」と親しげに声をかけてきたのです。高麗さん、まだ山田町に来て下さいますか、と尋ねられました。私は、もちろんです、いつでも行きますと答えたのです。その方は、実は先日電話を切ってから高麗さんの声がずっと頭の中で響いていて、この話を断ってはいけないと感じてお願いの電話をしたのです、とおっしゃいました。大変驚きました。そして、更に驚いたのは「私は高麗さんの事を知っています」とおっしゃったのです。瞬間私は、あの人だと分かりました。両親が亡くなった後に盛岡で「本音で生きて下さい」の講演会を開催した時、沿岸の方にいだき講座を勧めた覚えがあったのです。私が若草色のスーツを着ていた事をその方はとても衝撃を受けたそうです。自分もそういう服を着たいと感じて講座を申し込んだとおっしゃいました。ところが、途中で来れなくなってしまったのです。ご両親の介護の為との事でした。あの後どうなさったのかと気になっていたのですが、震災が起こった後に確か震災が起こった所にお住まいではなかったかと心配していた所でした。やはりその方だったのです。まさか、山田町の役場で働いていたとは驚きでした。こんな偶然があるのかと本当に驚きました。そして私は山田町でコーヒーの炊き出しをする事をお約束し、日程も決め備えたのです。続く…。