2010年5月、テヘランにて「高句麗伝説」を無事に開催出来、帰国し2週間後には、次はグルジアへと旅立ちました。テヘランの「高句麗伝説」にもグルジアから旅行会社の女性が2人来て下さっていました。旅行会社の社長さんの奥様と日本語を話す女性のスタッフです。アルメニアの「高句麗伝説」の後に翌日ホテルのロビーにてお会いした方々もこのお2人でありました。大変な思いで国境を越え、アルメニアまで来て下さり、是非グルジアにも来てほしいと依頼され、断る事は人間のする事ではないと感じ、その場で行く約束をしたのでした。
その後、グルジアはロシア軍が侵攻し、とても行ける状況ではなくなりました。ずっと退避勧告が外務省からも発令されていました。日本人として外務省の発令に従う事で動いていますので、グルジアへ行く機会が中々とれなかったのです。グルジアの方からは、もう侵攻が終わりいつ来て頂いても大丈夫とのメールを再三頂いていました。が、日本の外務省では退避勧告が出されているという事もお伝えしてきました。その様なやり取りの中で、本当にグルジアはもういつ来て頂いても大丈夫になっていますとのメールが届き、具体的にいつ来れるかという問い合わせがあったのです。丁度その頃、在日グルジア大使館を訪ねました。グルジアの状況を伺うと、今は問題なく、治安も安定し、いつでも観光客が来れる状況になっているとのお話がありました。日本の外務省では退避勧告が発令されているとお話をすると、よく分かっている表情をされ、困ったものだと嘆くような表情でおっしゃった事が、日本の外務省に何度も変更してほしい書類を提出していますが、きっと机の上にたまっていて見てもらっていないのではないかと考えているという内容だったのです。その時は、そんな事があるのかと驚き、大使館をお暇したのです。が、会社に着き咄嗟に外務省に電話をしたのでした。グルジア大使館でお聞きした事をそのままお話しました。外務省の方は確認しますという事で、変更の申請が出ているのであれば変更はしますが、1週間から2週間はかかりますとのお返事でした。そのままお電話をお切りしました。すると、その日のうちに外務省から電話が入り、今変更したとのお知らせを受けたのです。私は急いでこの事をグルジアの方に連絡しました。大変喜んで下さり、6月にグルジアに行く事が決まったのでした。グルジアへはトルコ、イスタンブールからグルジア行きの飛行機に乗りました。初めてイスタンブールで1泊しました。東と西の交差点と聞き、とても神秘的な街と聞いていましたが、本当に街全体が神秘的な雰囲気である事を感じました。レストランで夕食をとり一晩休み、すぐにまた翌朝はグルジア行きの飛行機に乗る為に出発するという短い滞在でしたが、ロマンあふれる香りがするイスタンブールのエキゾチックな街の雰囲気はとても心に残り良い時を過ごしました。翌朝、グルジアへと出発しました。トビリシの空港に着き、ホテルへと向かいました。木々の緑がとても美しい街でした。トビリシに着き、まず最初に観光大臣が私に感謝しているというお話を聞きました。日本の外務省に言って頂き、退避勧告を解除してくれた事をとても感謝しているとお聞きしました。そして、ご挨拶にという事で観光大臣にお会いしてきました。この度、コンサートを開催して下さる受け入れの旅行会社の社長さんは前観光大臣だった御方であります。グルジア料理をご馳走して下さったりしながらコンサートの話は進んでいきました。開催する場所を幾つか見せて頂きました。私がここがいいと感じた所は、教会の為に許可を取る事がとても難しく、時間がかかるということで第一希望の所は開催出来ないとの事でした。
最終的には街中の広場で開催するという事になりました。第一希望ではありませんでしたが、どこででも開催出来ればありがたいという気持ちで受け容れました。色々な所に連れていって頂きました。ある教会に行く時は、とても時間がかかりランチの時間がかなり遅くなりました。撮影を終え、やっとランチの時が来、私はほっとして喜んでいました。その時の写真が今講演会のチラシの写真となっている写真です。レストランでいだきしん先生が撮影して下さった写真であります。また、スターリンの生家に行ったりもしました。スターリンはグルジア出身である事を生家を見て、ここから生まれた方なのだという事を受け止め、ここに導かれた理由があるのかと考えたりもしました。そして、7人の兄弟の山に行く時に通った道から眺める川は白と黒とに分かれている事に驚きました。そして、7人の兄弟の山も白と黒とに分かれている山だったのです。