世界伝説 第103弾

2009年1月に大阪にある小さなコンサートホールにて、いだきしん先生のピアノコンサートを開催させて戴きました。その時のアンコールの演奏を聴いた時に、胸の奥から突き上げてくる慟哭、叫びたい程の愛おしい気持ちが爆発した様にあふれ出て、涙がとめどもなく溢れ、止まる事がありませんでした。幼い頃から願い続けてきた東アジアがひとつになる事を望んできた気持ちに火がついたのです。先祖高句麗は、中国遼寧省桓仁県五女山城が発祥の地で、第2の都が吉林省集安です。第3の都が北朝鮮の平壌で、高句麗は滅びました。韓国に行っても遺跡があり、中国、北朝鮮、韓国一帯に領土を拡大した跡が残っています。自分の先祖が生きた地が今は3カ国に跨り、王族は日本とロシアに亡命しましたので、今は高句麗があった地には高句麗人は住んでいないと知らされています。朝鮮半島は、南北が分断され、祖国を分断され、身内とも離れ離れになり、時代は高句麗時代とは違えども、この様に人間が分断され自由に行き来が出来ない事の悲しみは、子孫にこれ以上受け継がせる事は出来ないと子供の頃から何とかしたい気持ちがずっとありました。何とかしたい気持ちはあれど、国家が関わる事を何が出来るのかという事は常に考え続けている事であります。ソウルオリンピックがあった年に、ニューヨークから高句麗を45年研究してきた方が私を訪ねてきました。私が高句麗の真の子孫であるかどうかを確認しに来られたのです。「一目で分かった」とおっしゃいました。待ち合わせ場所にいた時に、先方様から「高麗恵子さんですね」と声をかけられました。その方は戦争の時に高句麗の地へ行き、高句麗の城跡を馬車で一日半かかって回ったとおっしゃっていました。これ程の城を築いた民族は、ただ者ではないと高句麗に惹かれてならなくなり、45年も高句麗を研究してきたとおっしゃっていました。私はその方から高句麗の歴史を学びました。教科書や本に書かれていない歴史を学ぶ事は私の喜びとなりました。本当の事が分かると生きる力が生まれ、頭が働き、判断、決断が瞬時に出来る様になっていったのです。人間は真実の歴史を分かる事で感性がよくなり、判断、決断が即時に出来る様になり、頭が働いてくるという事を経験しました。その方は「骨格から見ても高句麗の子孫である事は間違いない」とおっしゃり、私に会えた事を大変喜んで下さいました。その方がソウルオリンピックの開会式で、いだきしん先生が演奏されたらいいとご提案下さいました。私は、これで南北が統一という事までは表現出来ませんが、状況が変わり、人々が自由に行き来出来る様になればいいと願ったのでした。開会式のコンサートをするにあたり、趣意書を書く様にと言われました。私は何日も何日も考え、これ以上表現出来ないという趣意書を書き上げました。後日、当時の大統領からチョゴリが3着送られてきました。とても美しいチョゴリで、そのチョゴリを着て撮影会をしました。そのチョゴリを着て開会式に参加するという事を、高句麗を45年研究した方がご提案下さったのでした。心待ちにしていましたが、丁度、日本の文部大臣が失言をした事が大きなニュースとなっていました。韓国では反日感情が高まり、今、日本人が韓国に来る事は好まないという事態であると知らされました。ある朝、電話がかかってきました。オリンピックのオープニングの演奏は、止む無く出来なくなったとの知らせでした。瞬間、目の前が真っ暗になり、ふと、どこからともなく「これで10年遅れる」というメッセージが聞こえたのです。どこから聞こえてきたメッセージなのかは分かりませんが、時を逃すと10年、20年、30年、場合によっては永遠に時を失う恐怖を全身で感じました。これからは時は逃さず、必ず活かして平和への道を創ると、隙なく生きる事を心に誓いました。韓国でいだきしん先生が演奏される事をずっと望んできましたので、私の夢は絶たれたと瞬間感じる程目の前に幕が下りてしまったのです。大いなる働きかけ共に生きる平和への道ですので、一見悪く思える現象も大いなる働きかけによるものであるという事も重々分かっていますので、ここは受け容れ、次の道を創ると心に決め出直しました。北朝鮮でもコンサートを開催しようと何度も試みました。が、何度も直前になり、この話はなくなったとの連絡を受けるのでした。理由を尋ねたら縁を切られました。高句麗の四神図に描かれている青龍の写真をCDのジャケットに使わせて戴きたいと依頼した時に担当して下さった音楽大学の教授も、いだきしん先生のコンサートに初めて来て下さった時に、先方様から声をかけてきて下さいました。「高麗恵子さんですね。一目で分かりました。」とおっしゃいました。私が高句麗の子孫である事は一目で分かる事をこの方もおっしゃって下さり、言わずに分かって頂く事はとても嬉しい事と感じていました。このご縁から色々ご協力下さり、ハングル語まで教えて下さっていたのですが、北朝鮮の方から中止との知らせがあった事について理由を尋ねると、自分のアドレス帳から私の事はこれで消しますとおっしゃり、2度と取りあって下さる事はありませんでした。人と人は出会って心触れ合い何かを始めても、国の体制の中で生きる事により人間関係を断ち切ってしまう事は、中国や北朝鮮と関わる時に経験する事であります。この様な状態を変えたいといつも願って生きてきました。

大阪の小さなコンサートホールでのいだきしん先生のコンサートで、この気持ちに火がつき「東アジアがひとつになる道を創る」と強い気持ちが生まれ、今こそ時と見え、実行する気になったのです。その時、様々な働きかけにより大阪か京都か、どちらかで先生のコンサートを開催する働きかけがありました。大阪はシンフォニーホールでよく開催していましたので、大きなホールでの開催と示されましたのでシンフォニーホールか京都コンサートホールのどちらかと見えました。京都コンサートホールは完成した時に、この様なホールが京都に出来た事を大変嬉しく感じていましたが、ここでコンサートを開催する機会はありませんでした。いだきしん先生にどちらがいいでしょう、とふと尋ねてみたら「京都」と一言おっしゃいました。私は京都と決め、京都コンサートホールにて2009年4月26日開催と決めたのでした。いよいよ本格的に東アジアがひとつになる道を創る第一歩の動きです。京都コンサートホールに向けての動員活動では、東アジアがひとつになる道を創っていく事で色々な方々にお会いしていこうと考え、政治家や朝鮮総連から仏教界から、普段はお会いしない様な方々にお会いさせて戴き、私の気持ちを表現させて戴きました。大変ご協力頂いた方もいらっしゃいましたが、それ以上話が進まない所で今に至っています。京都コンサートホールでのコンサートは満席にせねばならないと、それだけが強くありました。東京の当時カフェ哲(現在カフェ高麗屋)にてのボランティアミーティングにて、私は京都の地図を買ってきてくれる様にと頼みました。テーブルの上に京都の地図を広げ、目を閉じ、光が見える所を指差しました。3つの場所でした。この3カ所が落ちれば、京都は落ちると見えたのです。戦国時代の戦に出る時の表現と感じましたが、私にとってコンサート満席に向かう道は、戦の時代に勝ち抜いていくという感覚がいつもあったのです。この社会を作った闇の勢力や、生命を犠牲にする様な仕組みを作っている側に生きている方にお会いすると、私を敵の様に見、激怒したり、ありえない行動をおこしたりします。いだきしん先生のコンサートの美しい写真で作ったパンフレットをお見せしているだけなのに、火がついた様に怒るその姿を見、闇により作られた世界で生きる人にとっては、自分の存在が危ぶまれていくので恐怖を感じるのだという事を常に目の当たりにしてきました。その黒い闇のエネルギーを身に受けると私の体は一変に苦しくなり、あまりに強い時は倒れそうになりますが、私は負けないといつも訓練し生きてきましたので、以前はかなり具合が悪くなったり倒れたりしましたが、徐々に強くなっていったのです。闇には負けないという気持ちがいつもあります。が、私達は戦う事はなく、ただ本音の表現をしていれば自ずと真実が明らかになり、作りものは自ら崩壊していくという美しい生き方で、新しい世界を創造出来るのです。こんなに美しく見事に素晴らしい平和への道は、大いなる存在が働きかけて下さっているとしか考えられない道であります。3カ所光が当たった場所は、八坂と高倉通りの御池通り、そして京都御所の辺りでした。そして、3カ所が落ちれば、京都は落ちると見えた場所は、自分の中にはっきりと見えていますが、この事は今まで表現した事はありません。ここでも表現は出来ません。落ちるという表現は、戦の時代の様で憚れますが、この時は、私は戦に出る気で始まったのでした。まず、見えた場所にあるギャラリーを探しました。八坂祇園ギャラリー、御池ギャラリーまでは見つかり作品展を開催しました。3つ目の京都御所近辺が下見には行ったのですが作品展には合わないと判断し、3つ目はギャラリーを借りる事はしなかったのです。

まずは、八坂祇園ギャラリーからの作品展開催からスタートしました。八坂祇園ギャラリーの下見に行った時に八坂神社の並びですので、八坂神社に久しぶりに入ったのです。10代の頃は、足繁く京都へ通い、本当の事を分かりたく、時間があれば京都に行っていたのでした。そして、電車もバスもタクシーも使わず自分の足でずっと歩いて回ったのです。その時、必ず八坂神社にご挨拶に来てスタートするのでした。八坂神社までは京都駅からバスに乗ったのです。その後は歩いて回ったのです。なぜ八坂神社にご挨拶しなければいけないと考えていたのかはもう分かりませんが、まずはそこからスタートと決めていたのでした。

 

この度、八坂の地の事を調べた時に、八坂神社は高句麗の人が運んだ神様が祀られていると書いてありました。そのご縁で私は何も知らないのに八坂神社にご挨拶に行かなければいけないと思っていたのかと考えるのです。魂の働きと感じます。久しぶりに境内まで歩きました。神聖なる空間というよりも色々なエネルギーが蠢いている場所であり、人も賑やかであり、聖なる地に赴くという状態とは違う事は、私の中では寂しく感じ、がっかりもしました。境内まで行き、境内に立つ梅の花が光と見えたのです。子供の頃から寒中に咲く梅の花の輝きに春の訪れを感じ、胸の内に光が灯り、生きていこうと新しい力が生まれ、生きてこれたのです。梅の花の輝きに引き寄せられ、梅の花の木の下に立ちました。そっと梅の花に顔を寄せ、目を閉じ、香りが何を語るかじっと聞いていました。ふと、後ろから呼ばれる感覚があり振り向きました。自分の見たものは古の光景でした。現実の色がついた世界ではなく白黒の世界でした。古の坂道です。この道を自分は知っていると感じ、いつここに来たのかと昔を辿りました。自分が生まれて初めて京都に来たのは中学の修学旅行の時です。この坂道はもっと前である事だけは明らかでした。私が生まれる前、かなり前の光景と分かりました。ふと、ここに先祖はいたのだと感じました。理由もなく涙が込み上げ、懐かしい気持ちで胸が一杯でした。私はいつもノートとペンを持ち、ふと薫る香りを詩にし、風を詩に表し歩いています。この時ノートに記した言葉は「ここに高麗を…ここに高麗を…」です。忘れられない出会いです。胸の中は懐かしさで一杯で、同時にときめきで一杯でした。帰路につく時に「厄除けぜんざい」という暖簾を見、私はお腹の底から笑いが込み上げ、このぜんざいを食べてみたいと先生にお話し、お店に入ったのです。胸の中は喜びで一杯です。厄除けぜんざいが運ばれ、私は一気に食べてしまいました。熱いのに、熱さも感じず食べてしまったのです。もはや味わう事もなく、自分は異次元世界にいた様でした。いだきしん先生がまだ一口位より召し上がっていない時に、私の器は空っぽになっていました。先生は「早いなぁ」とおっしゃいました。私は、その時初めて本当に早いなと感じたのです。火傷をして、舌が赤くなっていました。恥ずかしい限りです。私は熱さも何も関係なく、未来を見ていたのです。未来にきっと何かがあるという事だけは感じて、胸はときめいていたのです。続く…。