世界伝説 第85弾

五女山へ行く事が叶い、とても嬉しい気持ちでありながら、五女山がある地は現在中国でありますので、体制内で生きる人間の生命の苦しみを身に感じ、とても心が重く感じる経験となりました。すぐに12月には再び高句麗の地へ行く予定となっていました。今度は、高句麗第2の都があった吉林省の集安です。集安市が「高句麗伝説」コンサートに興味を持ち、集安で開催する事に協力するとのお話があったからです。私は信じられない気持ちで、とても楽しみに支度をしました。これ程いい話は早い方がいいと考え、厳寒の12月でありましたが、行く事に決めたのです。旅の支度をする時に、氷点下20度位の所でも耐えられる衣類をと考えました。私は、ノルウェーの北極圏トロムソに行った時、氷点下20度を超える程の寒さを経験していますので、その時に用意していた真っ赤なダウンジャケットを着ていくと決めていたのです。これ以上の防寒着はないと自分では考えていたのです。中国へ行く前日、偶然いだきしん先生とデパートに行く巡りとなりました。いだきしん先生のものを買いに出掛けたのでした。が、婦人服売り場も歩きました。あるブランドのお店で茶色のダウンジャケットが飾られていました。いだきしん先生がその前でずっと立ち止まっておられたのですが、私には興味がなく、違うお店を見て回っていたのです。すると、大きな声でいだきしん先生が「こっちに来い」とおっしゃっているのです。私がそのお店に行くと、このコートを買った方がいいというお勧めだったのです。私は、茶色と黄色が何故か、ある日突然嫌になり、それ以来、茶色と黄色の衣類は着た事がなく、小物でも身に着ける事はなかったのです。私は「茶色は着ません」と申し上げたのですが「これを着て高句麗の地に行くんだよ」といだきしん先生はおっしゃったのです。私は、茶色はどうしても着る気になれず、何度かお断わりしたのですが、もう買うよりないという状況でした。ここは購入だけして立ち去った方がいいと考え、購入したのですが、その時までこのダウンジャケットを着ていく気持ちは全くなかったのです。次は、茶色のバッグをいだきしん先生が勧めて下さいました。茶色のバッグも茶色であるので私は持つ気は全くありませんでしたが、お勧めして下さいましたのでダウンジャケットと同様にまずは買うだけ買っておこう、という気で購入したのです。次に、飛行機の機内にあるブランケットと同じ素材で作られた、これ一枚あればどんな寒さにも耐えられるという薄いセーターの様なジャケットをいだきしん先生が勧めて下さいました。私は、こんな薄いものでは寒さに耐えられないと思い、ノルウェーに行った時に買ってきたとても暖かいセーターがあるので、それを持っていくと申し上げ、このセーターは買いませんと言ったのですが、やはりこれもあった方がいいと、いだきしん先生はお勧め下さったのです。そして、先生は「俺は北国育ちなので、寒さの対策はよく分かっている。これで大丈夫。」と何度もおっしゃったのです。私は、正直不安で不安でなりませんでした。寒さに耐える事は、自分は出来ないと考えていますので、北極圏でも耐えられた服であれば安心して行けると考え準備していたからです。全て準備したものが変わりましたが、私は夜になっても準備した荷物をそのままスーツケースに入れたままで変えようとはしなかったのです。朝になり出発時間が近づいて来た時、昨日あれだけデパートでおっしゃって頂いたのに、自分はその服を持っていかないとなると…と急に不安になってきました。急いで昨日買った服を詰め、用意した服はスーツケースから出しました。真っ赤なダウンジャケットも着て行く予定でしたが、茶色のダウンジャケットに変えました。バッグも茶色のバッグに変えて成田空港へ向かったのです。真っ赤なダウンジャケットは、スポーツウェアですのでおしゃれなものではありません。その服を着ていると、周りのスタッフによく達磨さんみたいだ、と言われていたのです。格好よりも、寒さ対策と考え決めた服なのですが、いだきしん先生はきっと故郷に帰るのだから格好良く行かないと、と考え勧めて下さったのかとだんだん考え始めたのです。瀋陽の空港に着きました。

五女山も遠いですが、集安も遠いです。途中お手洗いに立ち寄った時に、ガイドさんはホテルを案内して下さいました。その時に、自分が受付の人と話して気を引いている間に、気づかれない様にしお手洗いに入ってきてほしい、と言われたのです。私にそんな事が出来るのかと、とても心配になりましたが、お手洗いは行くよりなかったので、急いで入っていったのです。隠れる様には入らず、堂々と入っていきました。その時の体感が、戦の時代に敵陣の中に入り込み、素早く動いている体感だった事に大変驚いたのです。とても気持ち良く、軽快に動ける自分が嬉しかったのです。いつもと違う服装をしているので、いつもと違う様に動けるのかと、この時から感じ始めていました。長い道中を経、辺りが暗闇に包まれている頃、集安に辿り着きました。集安のホテルは、1998年に宿泊したホテルと同じでした。ホテルの前に高句麗遺跡公園が出来ていました。私は、高句麗の文字が入っているのを見ると、嬉しくなります。早速、高句麗遺跡公園を歩きました。

とっても寒かったですが、私は春風を感じたのです。とても心がときめく春風が吹き、とても爽やかな気持ちで高句麗遺跡公園を楽しく歩きました。何とも素敵なひと時でした。いつまでもずっと歩いていたい、とふと言った時に、いだきしん先生が寒くて歩けるものではない、とおっしゃったのです。私は、普段は寒がりですが、この時は寒さも感じず、ずっと歩いていけると感じる程心地良かったのです。だんだん分かってきたのですが、私は魂を感じる時に、風を感じたり、香りがするのです。高句麗の魂を感じる時、甘い香りがし心がときめくのです。高句麗遺跡公園ですので、高句麗の香りに包まれ私は心がときめいてなりませんでした。今でもあの時の早春の風に吹かれた様に清々しい体感がずっと残っています。氷点下20度だったと聞いていましたが、私には春を感じたのでした。翌朝は早くに好太王碑に行きました。五女山城と同じに、2004年に世界遺産に登録されていましたので、1998年に行った時とはまるで違う状況となっていました。公園になっていたのです。以前は民家の中に突然、好太王碑が現れたのですが、今は綺麗に整備された公園が出来ていました。公園の中には、古墳もあり、好太王碑、王陵もありました。

この日もとても寒い朝でした。やはり氷点下20度は超えていると聞きました。ところが私は、この時も春風を感じ、早春の風に吹かれている様で気持ち良くてならなかったのです。寒さなどひとつも感じず、只々、心ときめき、嬉しく歩いたのでした。好太王の地は何もなく、心澄んでいきます。宇宙の遥か彼方に通じる内面を感じます。ふと大地から「心静かでなければ、戦には勝てない」と聞こえました。戦が続いた世に生き、常に心静かに生き、敵が来る事を察知し、すぐに動き、皆の生命を守る為に戦ったのだという事を改めて感じたのです。戦に勝つには、心静かでなければ、勝てる訳がないとよく分かったのでした。「生命賭けた戦は、勝つ事より生きる道なし」と生命で分かりました。「高句麗伝説」の時によく詩に詠ませて頂いている言葉です。好太王陵に立った時、丁度いだきしん先生が写真を撮影する所でありました。私の姿が写ってしまうので、手でよけてほしいという合図をなさいました。私は、瞬時に身を隠しました。この瞬間が、素早く動き、心何もなく、無限な世界とひとつであったのです。生命の内に心地良い風が吹き抜けました。瞬間「これが真の私」とはっきり分かる体感がありました。一切余計なものはなく、無駄な動きをせず、必要な事のみに動いていける心身となっていました。写真を撮る為によけただけなのに、私は戦の時に敵の目から見えない様に身を隠していった様な気持ちになっていたのです。生命守る為に必要な動きをしていく感覚が自分の内にありました。この経験が真の自分を生命をもって分かった、真の自分との出会いとなりました。今まで嫌いであった茶色の服を着、茶色のバッグを持ち動いていると、真の自分に出会えたのです。人生を振り返った時に、思い出した一瞬があります。私は、フリフリレースのスカートやブラウスを好んで着ていました。その専門店を見つけた時に、心の中で「これで自分を隠せる」と内なる声が聞こえた瞬間まで思い出したのです。何を隠せるとは、その時は分かりませんでしたが、その様に感じた事を思い出しました。時々母には、その服はやめた方がいいと注意されていました。母は、その様な事を言う人ではないのですが、ずっとフリフリレースのピンクの洋服を着ている私に呆れていました。いだきしん先生にも仕事をするなら、きちんとしたスーツの方がいいと何度もおっしゃって頂いていたのですが、自分は中々やめられなかったのです。が、確かに仕事をする上では、きちんとしたスーツの方が仕事にはなっていく事が分かってきましたので、仕事の時はスーツを着る様になっていました。何を隠そうとしたのかといったら、真の自分を隠そうとしたのだと初めて気が付きました。そして、母が亡くなった後の事を思い出しました。母の死は私には生きていけない程の悲しみでした。当時は、何をやっても生きている気がしなくなり、やっと毎日生きていたのです。そんなある日、いだきの研修所がありました表参道を歩いていた時に、ふと魅かれる様にあるブティックに入ったのです。これが、ジャンフランコ・フェレとの出会いとなりました。とてもシャープで斬新なデザインの服に魅せられました。が、大変高価であったので、私は、当時は中々服にそこまでお金をかける気にはなっていなかったのです。今考えますと、初めてジャンフランコ・フェレの服を着たのはモンゴルへ行く前でした。芦屋のブティックで、いだきしん先生に勧められたのです。貴方にはここのブランドが一番似合うとおっしゃって下さったのですが、私にはとても派手に感じ、中々着る気がおきなかったのです。そして、価格は50万円もするものでした。孔雀の総刺繍の素晴らしい服でしたが、私は買ってまで着たいとは思いませんでしたが、いだきしん先生に勧めて頂いたので、購入したのです。が、価値が分からずにモンゴルへ行く時に、その服を飛行機の機内へ着ていったのです。機内でスチュワーデスさんにじっと見られ、色々な人によく見られました。いだきしん先生が皆こういう服を着たいのだよね、と一言おっしゃったのです。その事を思い出しました。あの時にジャンフランコ・フェレには出会っていたのです。そして、そのブティックで一枚の服を試着した時に、お店の人が私に声をかけてきました。「お客様は生き方を教えていらっしゃるのですか」とおっしゃったのです。私は、大変驚き「そうです」とすぐに答えました。「何故分かるのですか」と尋ねました。「ジャンフランコ・フェレの服はとても華やかでありますので、似合う方はいらっしゃらないのです。お客様位内面が強く、明るい方でないと服に負けてしまうのです。お客様は服に負けずに似合うので、生き方を教えているとしか考えられなかったのです」とおっしゃったのです。一流のブランドには一流の店員さんがいるのだと大変感心しました。お客様を見てお話をし、お話は的確である事が素晴らしいと感じ、買う気はなかったのですが私は買う気になったのです。大変高価な服を初めて買いました。それが始まりで、あとは周りから病気と言われる程、買い続ける始まりとなったのです。最初は華やかなデザインのものばかりで舞台衣装になるものばかりでした。ある時、経営が変わり、とても地味な服より日本には入ってこなくなりました。色は地味でもデザインは斬新ですので、私はその斬新さとシャープさが魂震えてならない程好きでした。が、見た目はシンプルでありましたので、私は当時、黒のジャンフランコ・フェレより着ていなかったのです。何の飾りもついていない服を着る事は、過去にはなかったのです。装飾が一杯ついて華やかな色ばかり着ていたのが、いきなり黒のシンプルなデザインの服に変わったのです。こちらの方が私らしいのです。その事を好太王陵にて初めて分かったのでした。いだきしん先生が茶色のダウンジャケットと茶色のバッグを勧めて下さり着て行ったので、真の自分に出会えたのです。空間と生命はひとつでした。そして無限な世界で生きる生命でした。真の自分で生きる事は、無限な世界で生きる生命であると、生命をもって分かりました。真の人生の始まりです。続く…。