2006年3月は韓国へ行ってきました。エチオピアの大使の奥様の一族はエチオピアの財閥です。その一人に韓国の方をご紹介頂きました。その方は、エチオピアコンサートの時に大変ご協力下さいました。楽器を積んだトラックが行方不明になった時、代替えのトラックを出して下さったり、様々な会社を立ち上げておられましたので、色々とお世話になりました。ある時、お話をしていると、韓国に行くというお話がありました。韓国に何かあるのかと尋ねた時に、仕事で行っている事と韓国には親しい友人がいるとおっしゃったので、ご紹介頂きました。韓国は、1998年5月に、いだきしん先生がKBSホールにて「高句麗-華麗なる古代」というコンサートを開催しました。私は、新羅ホテルにて私のフォトブック「出会い」のハングル語版を出版し、出版記念パーティーを開催しました。
私は、この時に向けて、ハングル語で挨拶をする為にずっとハングル語を習ってきました。最初の先生は、以前、韓国人だけのいだき講座を開催した時のお一人の方にご紹介頂いた方で、早稲田大学に留学していた若い女性でした。この先生の時は、どんなに習っても覚えられなかったのです。この先生は、ルーツが北朝鮮の様で、韓国にいらっしゃるお母様に「高句麗の王族の子孫にハングル語を教えている」と言うと、お母様が兎に角喜び「大変な任務を受け持っているのでしっかりする様に」といつも激励されていた様です。その為か、張り切ってレッスンして下さいますので、大変なるエネルギーを注いで私に教えて下さいました。が、私は不思議な位覚えられない、出来の悪い生徒でした。その先生が、大学を卒業し韓国に戻りましたので、私は次の先生を探しました。次の先生は、私とは性格が合わない感じはしました。とても大人しい方でした。前の先生は気性が激しく、はっきりものを言う方でしたので、私も気性が激しく、はっきりしていますので、とても私の事を気に入ってくれていました。新しい先生は物静かで「李」というお名前でしたので、恐らく新羅のご子孫であるとはお名前からも、感覚からも感じていました。随分やめようかと何度か考えましたが、真面目に一生懸命教えて下さっておられましたので、私はひたすら習っていこうと継続したのでした。いよいよ出版記念パーティーが近づき、韓国に行く日が近づいた日、私は突然ハングル語が話せる様になったのです。大変驚きました。その先生はずっとおっしゃっていたのです。「分からなくても、ずっと声を出して読んでいると、必ず分かる日が来るから」と。その言葉が支えでした。突然、分かる日が来たのです。そして、新羅ホテルでの出版記念パーティーの時には、私はハングル語でご挨拶をさせて戴きました。