2002年5月には再びイランに行きました。いだきしん先生がおっしゃった「ペルセポリスでコンサートがしたい」を実現する為です。まず、イラン大使館に行き、その事をお話させて戴きました。イラン革命後イスラム教の国家となったイランでは、音楽は法律により禁止されています。コンサートを開催する事は不可能であるのです。それでも、いだきしん先生のコンサートは、人間とは何かの答えを見出し、その答えを即興演奏するという事、人間の内面が取り巻く環境を作りますので、内面が解放され、自由と愛を経験する時、自ずと取り巻く環境は変わっていくので、真の平和を創っていけるという事をお話させて戴きました。当時のハタミ大統領は「文明間の対話」を推奨していました。世界中で演説している演説を聞いた時、この大統領であれば、いだきしん先生の事をきっとご理解なさるでしょうと、私は直観しました。心に残っている演説は「戦争が繰り返され、問題、課題が山積する世界の状況をどの様に解決していくのか。外側からの解決はなく、人間の内面からの解決によってより取り巻く社会は変わらない」という内容でした。人間の内面を根源的に運命から解放される、いだきしん先生の事をお伝えしたい一心で「私はこの大統領に会いに行く」と本音が生まれたのです。大統領がこの様な演説をされる国ですので、きっとコンサートは開催出来ると、自分は開催出来ないという事を考えた事はありませんでした。文化担当の方も、とても思慮深く、知性あふれる方でありましたので、話はよくご理解下さいました。ところが、大変残念でありました事は、その文化担当の方は異動となり、日本から離れる事になってしまったのです。新しい文化担当の方をご紹介下さいました。初めてお会いした時、私達と文化担当の方が一生懸命話し合っている時に新しい文化担当の方は、居眠りをしておられました。私はとてもがっかりし、大変失礼ながら、この方で大丈夫かと心配になってしまったのです。が、次の瞬間、自分の内から生まれた気持ちは「この方を鍛えていけば良い」と、おこがましいですが、その様な気持ちが生まれたのです。鍛えるとは、いだきしん先生のコンサートを沢山ご経験頂く事と見えたのです。私は、その方を何度もコンサートにお誘いさせて戴きました。何度もお越し下さいました。ただ、コンサートでもよく眠ってしまい、私は寝ている姿を見る度に、大丈夫であろうかと不安になる事は正直、度々あったのです。ところが、いだきしん先生のコンサートを経験した生命は、ご本人が分からなくても、認識できなくても、変化していく事を、私には見える様に分かるのです。未来を拓く決断をし、共に動き、物事が成る様に成る様にと動いてゆかれるのです。凄い事と感動しました。5月にイランに行った時は、イランの文化担当の方が日本語を話せる旅行社の人を手配して下さっていました。私は、初めてイランに行った時のイランの伝統的ホテル、ラーレホテルがとても苦しかったので、この時の旅は他のホテルを予約してみました。丁度、誕生日の日にチェックインしました。初めて会った日本語を話す旅行社の方は、誕生日である事を知り、お祝いの言葉を下さいました。イランで迎えた誕生日です。何かとても只ならぬご縁を感じはじめました。コンサートを開催出来る様に、イラン政府がご紹介下さった政府の各部署を回らせて戴きました。女性が代表である部署もあり、安心しました。女性はとても話がし易く、理解も深く、物事が進んでいくのです。各部署での話し合いは、とてもうまくいったと自分では感じていました。音楽が禁止されてはいますが100%不可能とは感じなかったのです。可能性は大きいと感じたのです。様々なアポイントメントの合間に、テヘラン近くの観光地に連れて行って頂きました。そこで昼食を頂きました。イランではメニューはケバブよりありません。何処に行ってもお肉を串に刺して焼いたものとサフランライスを頂きます。また、ヨーグルトやチャイとメニューは決まっています。野外のテーブルでケバブを頂きました。とても美味しいです。その時の水の流れの音、風の音、人々の声を今でもよく覚えています。日本とはまるで違う暮らしです。異国の香りや風にふれて過ごすひと時は、まるで違う人生を生きている様です。

世界伝説 第28弾
また、この時いだきしん先生は、イラン国内を撮影する許可を申請しました。男性は許可されますが、女性は許可されないという事を初めて知りました。日本語を話す旅行社の方が窓口で交渉してくれていました。国際問題になるので、外国の女性は許可した方がいいと交渉して頂いた末に、女性である私も撮影許可が下り、許可証を頂きました。これで独りぼっちになる事はないと安堵しました。イスラム教の地に行くと、観光地であっても男性は入れますが、女性は入れない所ばかりです。私はいつも独りぼっちで、外で待っているのです。何とも寂しく、何故女性だから入れないのかと心に疑問が浮かび、あまり良い気持ちはしません。イランでも、また一人で誰もいない所で待たなければいけないのかと覚悟していましたが、許可証を頂いたので安心しました。いつも首からその許可証をぶら下げて歩いていました。コンサートに向けて可能性を感じ、自分では上手くいったと感じる動きでした。ところが、帰る日になり、驚いた事にお会いした方々全てが反対となっているという事を知ったのです。やはり、法律や制度により開催は厳しいという事になってしまったのです。驚き、憤りも感じました。会った時は微塵もその様な事を見せなかったのに、すぐにひっくり返ってしまうという事が、とても悲しく感じました。が、これが体制というものと受け止め、空港に向かいました。空港の中でペルシャ絨毯屋さんがあり、私は喜び、見に行ったのです。私は、ペルシャ絨毯が大好きです。何時の頃か覚えていませんが、子供の頃からペルシャ絨毯を作る夢を見ていました。ペルシャ絨毯を見ると、魂震えてならないのです。大変高価なものでありますので、魂震えて出会ってしまったら、購入するよりなくなってしまうという事が、自分では困った事だと感じつつも、出会ったら買ってきてしまうのです。この時は万が一、二度と来れないかもしれないからと感じ、出会った絨毯は買っておきたい気持ちで購入しました。イランに行くと二転三転し、上手くいったと思えば、また振り出しに戻る事を繰り返しました。その度に私は、もう二度と来れないかもしれないからと、ペルシャ絨毯屋さんに行き、絨毯を買ってきていたのです。気づけば置き場所がない程、沢山絨毯を買っていました。ペルセポリスコンサートの開催実現への道のりは、ペルシャ絨毯の数を見ると、どれだけ困難であったかという事が分かります。続く…。